今日は私の22回目の誕生日。
あれ?ペケママさん、激しい年齢詐称?
いえいえ、今日は私の「ブラジル年齢 22歳」です!
22年前、1992年4月11日、私はリオデジャネイロのガレオン空港に着きました。
朝の7時15分。
その頃は、ロスアンゼルス、サンパウロ経由のヴァリグ・ブラジル航空。
サンパウロに着く直前の朝日の美しかったこと、またサンパウロからリオデジャネイロにかけての海岸線の美しかったことを印象深く覚えています。
空港には朝早く着いたにもかかわらず、職場の方々が大勢、出迎えていてくれました。
3年間の予定の派遣できていたので、大きなダンボールやスーツケースを持ってきていたのですが、あれよあれよという間にバスにつまれました。
まずは、職場で使っていた大型バスで職場に向かいました。
まだ空港から市内に向かうLinha Vermelhaは開通しておらず,AV.Brasilを通っていきました。
コルコバードの丘の上には、両手を広げたキリスト像。
海岸沿いのコンビナート。
ラランジェイラス通の椰子の並木。
すべてのものが美しく、珍しく、バスの窓に張り付いてずっと外を眺めていました。
その頃の職場は周りをファベーラに囲まれた場所でした。
職場がここに移った頃は、リオ市内でも有数のお屋敷街だったということですが、私が赴任した当時、すでに回りはファベーラに囲まれ、飲み込まれようとしていました。
3年間の勤務はいろいろなことがありました。
大変なこともありましたが、今になって思えば、なぜか楽しいことばかりが思い出されます。
リオが大好きになった私は、3年間の勤務の後、一度日本に帰国し退職をしました。
そしてリオ在住だった主人と結婚し、再びリオに戻ることになったのです。
そのころの職場のことを思い出すと、一緒に働いていた人たちの顔が浮かんできます。
悲しいことに、一緒に働いていた方達、日本の方もブラジルの方も、多くの人たちがすでに鬼籍に入ってしまいました。
病気でなくなった方、不慮の事故でなくなった方、凶弾に倒れた方、たくさんの友人が旅立っていきました。
まだまだ若く、これからまだまだ活躍なさるだろう方もいらっしゃいました。
私を一番助けてくれた女性の友人は、せっかくさずかった赤ちゃんを残して旅立っていきました。
毎年4月11日のこの日を迎えるたびに、美しかったあの日のリオデジャネイロの朝の風景と、私を助け支えてくれたたくさんの友人達の顔を思い出します。
あの日の、あの風景、友人達の笑顔こそが、私のブラジル生活の原点だと思っています。
あれ?ペケママさん、激しい年齢詐称?
いえいえ、今日は私の「ブラジル年齢 22歳」です!
22年前、1992年4月11日、私はリオデジャネイロのガレオン空港に着きました。
朝の7時15分。
その頃は、ロスアンゼルス、サンパウロ経由のヴァリグ・ブラジル航空。
サンパウロに着く直前の朝日の美しかったこと、またサンパウロからリオデジャネイロにかけての海岸線の美しかったことを印象深く覚えています。
空港には朝早く着いたにもかかわらず、職場の方々が大勢、出迎えていてくれました。
3年間の予定の派遣できていたので、大きなダンボールやスーツケースを持ってきていたのですが、あれよあれよという間にバスにつまれました。
まずは、職場で使っていた大型バスで職場に向かいました。
まだ空港から市内に向かうLinha Vermelhaは開通しておらず,AV.Brasilを通っていきました。
コルコバードの丘の上には、両手を広げたキリスト像。
海岸沿いのコンビナート。
ラランジェイラス通の椰子の並木。
すべてのものが美しく、珍しく、バスの窓に張り付いてずっと外を眺めていました。
その頃の職場は周りをファベーラに囲まれた場所でした。
職場がここに移った頃は、リオ市内でも有数のお屋敷街だったということですが、私が赴任した当時、すでに回りはファベーラに囲まれ、飲み込まれようとしていました。
3年間の勤務はいろいろなことがありました。
大変なこともありましたが、今になって思えば、なぜか楽しいことばかりが思い出されます。
リオが大好きになった私は、3年間の勤務の後、一度日本に帰国し退職をしました。
そしてリオ在住だった主人と結婚し、再びリオに戻ることになったのです。
そのころの職場のことを思い出すと、一緒に働いていた人たちの顔が浮かんできます。
悲しいことに、一緒に働いていた方達、日本の方もブラジルの方も、多くの人たちがすでに鬼籍に入ってしまいました。
病気でなくなった方、不慮の事故でなくなった方、凶弾に倒れた方、たくさんの友人が旅立っていきました。
まだまだ若く、これからまだまだ活躍なさるだろう方もいらっしゃいました。
私を一番助けてくれた女性の友人は、せっかくさずかった赤ちゃんを残して旅立っていきました。
毎年4月11日のこの日を迎えるたびに、美しかったあの日のリオデジャネイロの朝の風景と、私を助け支えてくれたたくさんの友人達の顔を思い出します。
あの日の、あの風景、友人達の笑顔こそが、私のブラジル生活の原点だと思っています。