1994年5月1日、私はリオの海軍グラウンドで行われていた日系団体の運動会に行っていました。
準備運動を兼ねたラジオ体操を終えて ぶらぶらと自席に戻る途中、何人かの人たちが不安そうな顔で何かを言いながら 通り過ぎるのを目にしました。
「セナが事故?」
「死んだ?」
「いや まだ」
???セナ?
アイルトン・セナ?
そのうちに 会場全体にざわめきが広がり、みんな運動会どころではなくなってきました。
まだ携帯電話やインターネットが普及していなかった当時、正確なニュースをすぐに知ることは 難しかったのです。
運動会の主催者側から 閉会式の時 正確なニュースを知らされました。
その日、セナはポールから出走、途中のレース中断後 再開されたレースで事故を起こして病院に運ばれたというものでした。
その時は追突の衝撃で跳ね上がったタイヤがセナの頭部を直撃し、意識不明の重体 と聞きました。
しかし、実際には事故から4時間後には 帰らぬ人となっていました。
亡くなった原因はタイヤではなく、サスペンション部品がヘルメットを貫通して頭部に達していたことだということです。
「音速の貴公子」と呼ばれたアイルトン・セナ。
ブラジル国民の英雄として、あこがれとして、何度もF1の表彰台に上がりました。
私が印象深く、今でも思い出に残っているのは…
事故の直前のカーナバル休み、彼はリオのマンガラチーバというところにある地中海クラブに家族で遊びに来ていました。
たまたま 同じホテルに泊まっていた知り合いの子が彼を見つけ、写真を一緒に撮ってもらいました。
その写真の中で気さくに笑うセナは、普段テレビで見るセナとは 同じ顔をした別人のようでした。
写真を見せてくれた男の子の 誇らしそうな顔とともに、今でも記憶に残っています。
セナの遺体はその後 当時のヴァリグ・ブラジル航空で母国に戻ってきました。
多くの人たちが涙で彼を出迎えました。
25年たちましたが、アイルトン・セナの名前はますます街中で見かけるようになってきました。
それは 新しく作られる道路や橋などに、どんどん彼の名前がつけられているためです。
25年たっても、やっぱりアイルトン・セナは ブラジル国民にとって「英雄」なのです。
サンパウロ モルンビー墓地にある アイルトンセナの墓