デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



映画「ベスト・キッド(原題:The Moment of Truth / The Karate Kid)」(1984)をかなり久しぶりに鑑賞。東京五輪で空手競技があることもあって放送されたのだろうか。2時間以上ある字幕フルバージョン版の放送があったので鑑賞した。
今回の分は、かなり前に見た、日本でTV放映されていた日本語吹き替え版とは尺の長さからしてかなり異なっている。なので実質、初鑑賞みたいなものだった。
かつてTV放映されていたバージョンでのノリユキ'パット'モリタが演じたミヤギに、まるで仙人みたいな印象を抱いていた。しかし今回の字幕バージョンではミヤギは仙人ではなく、辛い過去を乗り越えてきた人であることに気づかされた。
どういった辛い過去なのか?それが分かるのは、彼が軍服を着て酩酊してしまう場面だ。要約すれば、ミヤギは第二次大戦でアメリカの日系人として従軍しヨーロッパにてドイツ兵に対して戦果を挙げ勲章まで授与された。しかし当時は日系人差別が激しかった時代でもあり、日系人収容所に収容されていた妊娠中の奥さんが母子ともに出産の際に医師の到着が遅れ合併症で亡くなった悲痛な過去をミヤギは持っていることになる。
私自身の記憶があやふやでなんだが、昔、TV放送された日本語吹き替え版にはその場面がある分と無い分が存在しているように思う。番組の尺の関係で2時間以内にそれもCMも挟まなければならないから実質1時間半と少しくらいの内容に編集されたものだと、主人公ダニエルの新生活とヒロインのアリとの出会い、コブラ会の傍若無人、修行、空手の大会といったスポ魂王道展開を前面に出すものになっていたのかもしれない。またミヤギが酩酊してしまう場面を日本語吹き替え版で見ても日系人差別や日系人収容所が意味するところのものが分かりづらかったように思う。日系人差別のことが理解できるほど精神が大人になってなかった頃というのもあるかもしれないが。
他、フルバージョンではダニエルとアリの関係が深まっていく過程が丁寧に描かれているように思った。デートなどを繰り返す場面がカットされた日本語吹き替え版だと、大会当日の会場にて選手のセコンドしか入れない関係者スペースにアリが「関係者」として入り込みダニエルを間近で応援する場面に妙な唐突感を覚えていたものだ。しかしフルバージョンだとアリもセコンドのような役割を担うにあたり十分納得のゆく描かれ方となっていることが分かった。フルバージョンで鑑賞すると話の脈絡がきちんとしているいい映画であることが分かってよかった。


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「君の名は。」(2016) ★★★★★

「鳥」(1963) ★★★★★
…ヒッチコック監督の代表作の一つ。TVの放送で鑑賞したが、MeToo運動が盛り上がっている時期だった。バツイチの男の住所のみならず男の娘の名前まで周到に調べて男の気を惹こうとするヒロインの姿を見て、こんな時期に放送していいの!?とTV局が苦情処理に追われているのではないかと心配になり余計なお世話なことまで考えてしまった(笑)。
この作品の示唆するところのものはたくさんあるだろう。私は天災に見舞われ被害を抑えることができず、対処の方法が見出せないその原因を「たまたま港町にやってきただけの女(ヒロイン)」を魔女呼ばわりすることで問題をすり替えよう目を背けようとする絶望した婦人役の演技にゾッとしつつ上手いなと感心した。

「ノスタルジア」(1983) ★★★★★

「ビューティフル・マインド」(2001) ★★★★★

「誘う女」(1995) ★★★★★
…ニコール・キッドマン主演の作品のなかでは私はこれが一番お気に入りだ。成り上がるためには手段をいとわない女の因果応報を描いた物語だが、ブラックユーモアとして現実というものを上手く描いているのではないか。これもMeToo運動が盛り上がっている時期にTVで見たのでTV局に苦情が行っていないか心配になった(笑)。

「ワーテルロー」(1970) ★★★★★
…監督のセルゲイ・ボンダルチュクは、大スペクトルな「戦争と平和」も撮っている。描き方が似ているなと思った。

「バラバ」(1961) ★★★★★
…「道」や「その男ゾルバ」に主演しているアンソニー・クインが、キリストの代わりに放免されたバラバを演じているとは知らなかった。丁寧に見ていけば紀元1世紀の時代をリアルに描こうとした制作陣のすごさがよくわかった。

「ロシュフォールの恋人たち」(1967) ★★★★☆
…ふと見た映画に用いられているメインテーマ(BGM)が、以前聞いたことのある曲で詳細を知りたかった曲でもあった、という体験ってけっこうあるものだが、この作品のメインテーマは目から鱗な気になった。作品は昔一世を風靡した感じでおもしろかったことはおもしろかったが、時代を否応無く感じさせられたのも事実だ。

「アメリカン・スナイパー」(2014) ★★★★★
…二度目の鑑賞。ショッキングな内容ではあるが、リアリズムに徹した名作である。

「大統領の陰謀」(1976) ★★★★☆
…ウォーターゲート事件のスクープを新聞記者が記事にするまでの物語。裏を取る取材って大変なのだと改めて思ったし、紙面に載せるゴーサインを出すまでに生じる社内のさまざまな事情の存在は今も昔も変わらないのだ。「インサイダー」もひさしぶりに見たくなった。

「傷だらけの栄光」(1956) ★★★★★
…ポール・ニューマンがボクサーに扮した作品。ロッキー・グラジアノとロッキー・マルシアノの違いすら分かっていない私ではあるが、スタローンの「ロッキー」を髣髴とさせる「傷だらけの栄光」は楽しめた。ポール・ニューマンはいろいろな役をやっているが本当に多才だと思った。

「カルテット!人生のオペラハウス」(2012) ★★★★☆
…ダスティン・ホフマンがメガホンを取った作品ということで興味を抱いた。舞台がミラノにあるヴェルディの音楽家のための憩いの家っぽいなと思ったらやっぱりそうだった。

「鏡」(1975) ★★★★★
…タルコフスキー作品のなかでも最も難解な作品だが、時を経て再鑑賞し、辻邦生のエッセイや、馬場広信著『タルコフスキー映画』、西周成著『タルコフスキーとその時代 秘められた人生の真実』を参照して、作品を鑑賞するにあたり監督の自伝的要素をきちっと知っておいたほうがいいことをようやく素直に受け入れられるようになった気がする。

「ベニスに死す」(1971) ★★★★★
…再鑑賞。昔見た時ほどには衝撃を感じなかったのは仕方がないか。ただヴィスコンティはトーマス・マンの原作に相当共感したであろうことは、原作に肉薄するための演出を見るだけで感じ取れた。また登場人物のちょっとしたしぐさや衣裳が主人公にとってはタブーでありつつも抑えるに抑えきれない衝動を抱かせる世界のメタファーとして分かりやすいものにしている点は巧妙だなと改めて思った。

「ミッション」(1986) ★★★★★
…再鑑賞。主人公の神父は司馬遷の「史記」に出てきそうな人物だなとも捉えられた。以前は見逃していたが、神父やグァラニー族を虐殺したことへの良心の呵責や自責の念が、政治的葛藤を抱えるアルタミラーノ枢機卿や総督らにも見られる場面があったとは…。

「山猫(完全復元版)」(1963) ★★★★★

「華麗なる激情」(1965) ★★★★★
…ミケランジェロと教皇ユリウス2世の奇妙な関係というか奇妙な友情の描き方がとても面白かった。ミケランジェロが作業していた時期のシスティーナ礼拝堂の天井と、ボッティチェリやギルランダイオらが描いた壁画との合成も上手く凝っているなと感心した。

「カプリコン1」(1977) ★★★★★

「スワンの恋」(1984) ★★★★★
…『失われた時を求めて』のなかの一篇を映画化するのは難しいのだろうけど、がんばったなぁと素直に思った。スワンが晩年に訪れたサロンに作家のそっくりさんみたいな人物をエキストラとして登場させているのは監督の遊び心だろうか(笑)。そっくりさんといえばゲルマント公爵夫人を演じた女優が小説のモデルになった人とそっくりだったのはこだわりを感じた。

今年は映画を鑑た本数が増えた。ずっと気になってはいたが、鑑賞の機会を逃していた作品を中心に鑑賞でき良かったと思う。来年もいい映画と出会いたいものだ。


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映画「カプリコン1」(米英合作,1977)を鑑賞。

血気盛んな頃、なんでもかんでも斜に構えて見てしまう時分にこの作品を見ていたとしたら、「人類は月に行っていない、月面着陸の映像は国家的な「やらせ」でありすべてはアメリカが世界に誇示する威信のための陰謀」などと、まことしやかにふれまわっていたかもしれない(笑)。しかし、映画のように閉鎖している軍の施設を使って「火星に着陸したというやらせ映像」を生中継して国家の威信を保とうとするようなことはなくとも、現実の世界でも国家の権力でもって「やらせ」でもって既成事実や世論をつくってしまうことは実際にあってしまうから性質が悪いし、この映画を完全にネタとして感じられないところもあると思うとなんだか悲しい。
それはさておき、作品は政治・サスペンス性が強いものの、飛行士や記者が置かれた立場(苦境)に対しブラックジョークな自嘲ネタで鑑賞者を笑わせるセリフもけっこう多く、「やらせ」を決行せざるを得なくなった博士の不満の吐露もなんとかにも三分の理で同情せざるをえない内容で笑えたりと、ユーモアと笑いの要素も豊富だったので見ていて楽しかった。車が細工されて暴走してしまうツッコんだら負けな場面も、映画なんだしこれでもいいじゃないかと思って見れた。

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私の個人的体験でなんだが、10年以上前だったか、若い女性があこがれる「小父様」的特徴としてこの映画の主人公ドン・ファブリツィオ(サリーナ公爵)のような人が挙げられるといったようなことを酒の席で耳にした。野暮な私はさっそくこの映画をレンタルしてきてイタリア近代史などの知識を全く持たないまま視聴した。まったく面白く感ぜず非常に退屈だった。

先日、録画しておいた『山猫(完全復元版)』で再鑑賞すると、傲慢ではあるが洗練された優雅なふるまいも含めてバート・ランカスター演じるドン・ファブリツィオに、「小父様♪」として庶民が近づこうものなら門前払いだなと思った(笑)。当時のヒエラルキーの違いを誇大妄想で乗り越えられそうなものという若気の至りの時期の真っ只中だったのだろうと思った。
私がいうのもなんだがイタリアにおけるシチリアの立場はそれこそ波乱万丈といっても過言ではない。そのことが作品にもドン・ファブリツィオのセリフの中にも顕れていることを理解しようにも若い頃には実感として伴わせることができない。あの雰囲気は監督のヴィスコンティの貴族意識があってこそ醸成されるものだろう。
ただ、時代は自分達にとって斜陽・没落していくことを避けられない容赦の無い時代の波に飲まれつつも、ドン・ファブリツィオは決して「いき」なところを失わない人だな、と感じた。映画を見る前に読んだ九鬼周造『「いき」の構造』の影響もあるのだが、「いき」というのは江戸時代の庶民だけに見られるものではなく、外国の貴族であっても見て取れるような気がしたのだ。
ドン・ファブリツィオが「いきな人」?とおそらく人様からすれば私の感性や直感から得たものが的確な表現として合っているものかどうか疑問を呈することも少なくなかろう。しかし、ドン・ファブリツィオにはやせ我慢と反骨精神のみならず「諦め」まで表現されているじゃないか(笑)。『「いき」の構造』で論じられている「いき」に影響され、その言葉の端々を今回この映画にみた。

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今回の再鑑賞では、どういうわけかいろいろなことを考えてしまい、知らぬ間に時間が経ってしまう。なので考えたことの備忘録のようなものを書いておこう。

この作品は、あくまで身体が病気で蝕まれているロシア人の作家がイタリアの地にて、ロシアへのノスタルジーと記憶の断片の想起に苦しむ物語である、ということ。

映画は神秘主義的なものを鑑賞者に与えることがあるかもだが、いくつかの場面を除いて神秘的なものは鑑賞者が自身の中でつくりだしてしまう一印象にすぎないのかもしれない。

廃屋の雨漏りや水たまり、廃墟の中で白い彫刻の上を澄んだ水が流れたりする場面は、たぶん美術的効果を追求したものに過ぎないのだろうが、しかしそういったモチーフによってつくりだされたものが鑑賞者をさまざまな解釈を試みようとさせるものになってしまうのは不思議だ。

ホテルにチェックインして部屋に入ったアンドレイがベッドに腰を掛けたら画面が暗くなり、ロシアにいる妻が妊娠している頃の姿が映し出されるが、あの場面はフランチェスカの「出産の聖母」を見なかったこととは関係なく、ベッドに腰を下ろした動作によってアンドレイに記憶の間歇が起こったことの表現ではないかと思う。つまりアンドレイのイタリアの片田舎のベッドに腰を掛ける動作は、彼がロシアにいる頃、妊娠している妻が仰向けに寝ているベッドの淵に彼が何げなく腰を掛けた動作を彷彿とさせ、無意識下に沈んでいた記憶を呼び起こさせるものだったと解釈したくなった。まるでプルーストの小説のように。さらに想像を膨らませるなら、ひょっとするとロシアでのベッドに腰を下ろした日には雨が降っていたのかもしれない。

多くの人にとって頭がおかしいを感じられる行為や言動を宗教生み出すことになった人々は臆面無く行った。釈尊は苦行を自ら行い餓死しかけたし、キリストは40日間岩穴に籠って試す者と対峙してから新たな真理を説く活動家になったがその教えは周囲との摩擦を生み出し混乱をもたらした。ドン・キホーテやムイシュキン公爵も混乱をもたらした。
彼らのやることなすことはある意味頭がおかしく無様である。しかし彼らのやることなすこと、なんだあれ?と首をかしげるようなことこそが強烈な印象を与え、それには人を動かす変な力があるのは間違いない。それは映画の中のドメニコの狂人でもあり聖人でもある姿にも当てはまる。

ドメニコの壮絶な最期はなんであれ皆を救うための殉教であろう。アンドレイにとって約束を果たす行為は贖罪と救いを求めるものだろう。

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А・タルコフスキー監督「ノスタルジア」(1983)は何度も再鑑賞した映画である。とはいうものの前回の鑑賞は5・6年前ぐらいで昔の解像度のテレビ画面でしか見てこなかった。今回は一昨日にBSで放送された分を最高画質で録画し、初めて解像度の高い近年の液晶テレビ画面での鑑賞だった。
そのこともあって今回は異常に美しく感じた。また、これまで気に留めなかったセリフに気付けたりと今回は今回で鑑賞した価値があったと思う。とはいえ私などに手に負えるような映画であり続けていることは間違いないのだが。
今回新たに印象に残ったのは、アンドレイ・ゴルチャコフとエウジェニアが滞在するホテルには犬を連れた婦人だけでなく、他の宿泊客から「将軍」と呼ばれている場違い?といっていいような珍妙な音楽(中国仏教もしくは道教の経を唱える)を奏でる2Fに滞在している中国人の男性とその孫とおぼしき男の子だ。アンドレイと風呂上りのエウジェニアが口喧嘩して彼女がローマへさっさと発とうとする場面に「お経」の途切れない「か細い」声と鐘の音が聞こえ続け、そこでエウジェニアは作曲家サスノフスキーの苦悩の手紙に一通り目を通しつつも気に留めることなくローマへ発つ。この映画は劇的な効果音やBGMを極力排しているゆえ、いい大人の男女が口げんかする声が廊下に響いているにもかかわらず淡々とお経が唱えられるのが聞こえてくる様は却って印象に残るのだ。他人の喧嘩に対してある種の文化的国境があれば無関心でいられることが嫌でも分かるという意味だろうか(笑)。
アンドレイとドメニコが言葉を交わす場面で、アンドレイには二人の子供がおり一人は大きくなった娘、もう一人はまだ小さい男児がいるという点は今回非常に大きなポイントのように思えた。
というのはドメニコは彼なりの世界の終わりという観念から家族を救おうとして7年間妻と息子を家に幽閉した。ドメニコは家族に犠牲を強いた過去を持つ。アンドレイはロシアからサスノフスキーの研究や多くの名画を見るためにイタリアに滞在しているが、ロシアに置いてきている家族と過去にどのようなことがあったのかははっきりと描かれないものの、家族への気持ちに後悔や自己批判、煩悶・苦悶する様子が今回の鑑賞でより分かった気がした。つまりドメニコもアンドレイも家族に犠牲を強いている点で同じなのだ。温泉の周辺住民からは狂人扱いされているドメニコにアンドレイが初対面にもかかわらず口に出さずとも気持ちの根源的なところで「共感」し、アンドレイはロウソクを託されて承諾するであろうオーラを自身の悲しい過去で織り込まれたものから発しているといっていいのかもしれない。
私が思うに、そのあたりのことがアンドレイのことを偽善者と罵って癇癪を起こすローマへ発つ直前までのエウジェニアにはまだ理解できていなかったのだ。信仰に篤い古風な女性像に反感をもつエウジェニアは昔の女性の義務や価値観から自立して幸せになりたいだけでなく、作家や詩人ひいては芸術家のもつ創作の資質や霊感に憧れているフシが窺える。しかし、ドメニコに話しかけても適当にあしらわれることに見られるように、自分にその霊感が訪れなかったり自分が芸術家としての聖人ではないことをどこかで自覚しているものの整理がついていない。作家と付き合っても聖人が得るような霊感を得られない彼女には別のアプローチが必要だった。ゆえに彼女がローマで付き合い始めた口髭の男性はスピリチュアル系の魅力をもっている人物で、彼女はインドに連れて行ってもらえれば自分の中で何かが起こることを心待ちにしているのかもしれない。
そんな逡巡のさなかにいる彼女が、ローマで大きいことをすると言っていたドメニコの言を電話でアンドレイに伝えるという仲介役を演じるのはおもしろい。ローマにいたって彼女はドメニコのことを狂人ではないと言い切り、単なるアンドレイの雇われ通訳者兼愛人でなくなるのだ。
未だに腑に落ちない点もある。電話がかかってきた時点でロウソクの約束はまだ果たされてなかったが、アンドレイは「(方便で)約束を果たした」と受話器越しにエウジェニアに言った。彼女は騎馬像の上で演説するドメニコにアンドレイが約束を果たしたと伝えにカンピドーリオ広場への階段を駆け上がろうとするが、時すでに遅かったという一連の場面である。ドメニコもアンドレイも、場所こそ離れていても、どちらかの行為の結果を受けて自分の行動に移したわけじゃないのだ。
ドメニコはパフォーマンスに邁進してアンドレイが約束を果たしたかどうかを知りようが無い、が、それを指摘するのは野暮というものか。ドメニコにとっては約束は果たされたことになっているのかもしれない。
奇しくもその点でいえばドメニコの壮絶な最期をアンドレイは知らなかった。にもかかわらずアンドレイは最後の命を燃やし約束を果たす。彼女からの電話がある前に、終末のような荒れた石畳の道の端に置かれた鏡に自分の姿を映しているはずがドメニコの姿に映る夢に戸惑いつつも、それはアンドレイにはドメニコと"同化"したことを意味し、また気持ち上での約束への無意識の覚悟が出来たことを意味するのかもしれず、そうなれば行動をおこすきっかけとしては彼女からの電話だけで十分だったのかもしれない。
もちろん完全に腑に落ちたわけじゃない。ただ、未だに私にとっては不思議な展開・めぐり合わせであるにもかかわらず言い知れぬ崇高なものを感じるのは今も変わらない。

映画「ノスタルジア」の一場面ついて、こちらにも記事があります。

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現代の飛騨と東京を舞台に二人の高校生が時空を超えてめぐり合うファンタジー作品。昨年の大ヒット作でありブームになった。
私は正月にテレビで放送された分を録画して鑑賞したのだが、時系列が整理できず、二回目の鑑賞でようやく分かった(気になった)。
日本のアニメも作り込みがすごいものはすごいなと素直に思った。伏線の張り方も見事だし、見ていて釈然としない点もファンタジー作品ならではの巧みな処理がなされていて上手いと感じた。
ただ、いっちゃなんだが、私の周囲の人と作品について話してみて

誰そ彼、これが黄昏時の語源ね。黄昏時は分かるでしょ?夕方、昼でも夜でもない時間、世界の輪郭がぼやけて人ならざるものに出逢うかもしれない時間。

ムスビって知っとるか?土地の氏神様をな、古い言葉でムスビって呼ぶんやさ。この言葉には深い意味がある。糸をつなげることもムスビ(結び)、人をつなげることもムスビ、時間が流れることもムスビ、全部神様の力や。わしらの作る組紐もそやから神様の業、時間の流れそのものを表しとる。寄り集まって形をつくり、捻じれて絡まって時には戻って途切れ、また繋がり、それがムスビ。それが時間。

水でも米でも酒でも人の体に入ったもんが、魂と結びつくこともまたムスビ。

口噛み酒やさ。ご神体にお供えするんやさ、それはあんたらの半分やからな。
作品で語られる上のセリフを聞き逃していたり頭の片隅に置かないままだと、この作品内の氏神様による神秘的で不可思議なストラクチャー(構造)と理(ことわり)を理解できないし、おそらくこのあたりのことを整理できてないまま初見で終わっている人も少なくないのではと思わざるを得なかった。
昨年、作品を見た人の多くが「泣いた」という口コミを耳にしたが、私には上のストラクチャーを忘れ、かつて読んだことのあるような物語の進行を思い出したり自分の若かりし頃の夢想や情熱を彷彿とさせる場面で思い入れが強くなってしまったことから、我を忘れて感動し涙したのではと思えた。
作品として公開された以上、作者の手を離れてしまったら作品は鑑賞者のもの、鑑賞者が「自分のもの」としていかようにも見ることができることに対し異を唱えるつもりはないが、見終わったカタルシスのみで「よかった」だの、未だ名も知らぬ運命の相手とつながっている赤い糸だの、時空間を超えての一途な愛だの、といったフワフワっとした一言で作品の感想として終わらせてしまうのはもったいない気がする。


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「最強のふたり」(2011) ★★★★★
…昨年も見ていたので二度目の鑑賞。こういう映画はしばらくしたらまた見たくなる。

「マラソンマン」(1976) ★★★★★
…ローレンス・オリビエの怪演に度肝抜かれた。

「アンタッチャブル」(1987) ★★★★★

「フィールド・オブ・ドリームス」(1989) ★★★★★
…「アンタッチャブル」も「フィールド・オブ・ドリームス」も字幕版・吹き替え版ともに何度か見ているが、いまになって1980年代後半から90年代のK・コスナーは出演する映画が当たりつづけて大忙しだったんだなぁと思った。

将軍家光の乱心 激突」(1989) ★★★★★

白毛女」(1950) ★★★★★

昨年同様、見た作品数が五作品とは(笑)。しかし映画こそ少ないものの、ドキュメンタリーや旅番組やラグビーとバスケットボールの中継を見る時間が格段に増えたことを思うと仕方がないのかもしれない。でも、来年もいい映画に出会いたい気持ちは変わらない。

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先日、中国映画を支えた日本人~“満映”映画人 秘められた戦後~という2006年に放送された番組の再放送を見、戦前「満州映画協会(満映)」に勤めていた日本人の映画人が中国映画「白毛女」(1950)に深く関わっていたことを知った。
作品の制作は東北電影制片廠という会社だが、そこには戦後日本人スタッフが中国に残って働いていた。残った日本人映画人たちは第二次大戦後の中国映画の技術発展にも大いに尽力したが、そのことが公に知られるようになったのは今から十数年ほど前だったという。その事実を知り俄然作品を観てみたくなった。
「白毛女」は中国共産党の意図やプロパガンダが反映されるようなものになっているので内容は想像通りだった。とはいえ全てのセリフが分かったわけじゃない。私が観たバージョンは中国語字幕のみの中国語版だったからだ。けれども内容が沪剧(上海オペラ)のような音楽映画なので何が描かれているのかはよく分かった。
正直なところこのストーリーで100分以上の長編に仕上がっているというのは観ていて辛いところもあった。しかし、監督の王濱が制作に向けて並々ならぬ意欲を持って臨んだ事や製作スタッフのテロップに日本人スタッフの名前を日本名で出せなかったこと、日本人スタッフの苦労談のことなどを思いつつ観ていたら、形ある物を残す映画人たちの堅忍不抜とひたむきさを感じ取れたような気になった。
おそらく「時代背景」や「苦労談」の予備知識なしに作品だけを観て率直に感じたことを書いたならば、こんな風に思わなかったろう。ただ例え予備知識なしに観ても、作品のつくり込みの丁寧さだけはきっと印象深く残ったことと思う。

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映画『将軍家光の乱心 激突』を観た。
一難去って又一難の展開、激しいアクションはテンプレで満たされていて見ていてある意味とても気持ちよかった。それはもちろん、つっこみどころ満載であることを意味しているがアクション時代劇ゆえにつっこんだら負けか(笑)。豪華俳優を用いて、いかにも作りたい物を作りました!といわんばかりだった。
作品の中の猪子甚五右衛門を演じた胡堅強(フー・チェンチアン)は少林寺シリーズでも有名で、胡堅強の身のこなしはさすがだなと思った。竹千代をあやすため猪子甚五右衛門が猿の動作の真似をする場面、あれって京劇の「孫悟空」の所作じゃないのかなと思ったとき、JACのみならず中国武術・京劇まで盛り込まれていることに感心した。
そう考えると、すごく贅沢なアクション映画だなとも思った。

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