デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



「孤独のハーモニー」の部分

神戸にデ・キリコ展を鑑賞しに行った。曜日によっては夜8時まで開館しているので非常に助かった。


「沈黙の像(アリアドネ)」(1913)


「予言者」(1914-1915)


「形而上的なミューズたち」(1918)


「風景の中で水浴する女たちと赤い布」(1945)


「17世紀の衣裳をまとった公園での自画像」(1959)


「球体とビスケットのある形而上的室内」(1971)


「孤独のハーモニー」(1976)


「瞑想する人」(1971)


「オデュッセウスの帰還」(1968)

デ・キリコの写真は
けっこう残っている

どういったきっかけかは忘れたが、デ・キリコの「通りの神秘と憂愁」(1914)に若いころに衝撃を受けてから、ときどきデ・キリコの画集を見ていたものだ。
今回の大回顧展、ベックリン、クリンガー、シュティムング(雰囲気、情緒)、エニグマ(謎)、デペイズマンなどの人名や用語をメモを事前に手にして行った。予習して行って本当に良かった。
デ・キリコ展ではジョルジョのいうところの「詩情」「秋の午後の情緒にもとづいている、空が澄み渡り影が長くなっている状況で起きやすいある秋の午後の謎」を描いた作品も見れたし、アルノルト・ベックリンの影響が強かった頃の「弟の肖像」(1910)、アンリ・ルソーの影響も見られる「山上への行列」(1910)は会場にいる間何度もその前に足を運んだ。
トリノの塔モーレ・アントネッリアーナを決してそのまま描かないかたちで描かれた「大きな塔」(1915?)も撮影可能だった「沈黙の像(アリアドネ)」(1913)も昔よく画集を見ていた頃に、いつか実物を見てみたいと思っていたので、願いが叶ってうれしかった。
イザベラ・ファーの肖像を描いた「秋」(1935)、「アレクサンドロス大王の上陸」(1962)もじっくり鑑賞したし、「谷間の家具」(1927)ではシュールレアリスムというより実際的な理由から現れる風景の記憶であったというのが面白かった。
またデ・キリコといえば時代を先取りというか、時に啓示とか予言が当たってしまうような信じがたいエピソードでも知られていて、ヨーロッパを根底からひっくり返したような第一次大戦への不安やその戦いでのアポリネールに対する予言、最初に入籍した奥さんのその後の職業(「考古学者たち」(1927頃)など)、ポップアートの先駆けのような創作など、少し調べるだけでも興味深いエピソードが出てくるのだが、それらを網羅できる展示内容だったのでとても充実していた。
デ・キリコの作品に惹かれる方にはぜひ足を運んでいただきたく思った。


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なんだか、心底からガクッとなる感じだ。日本の芸能界にとって大きすぎる損失だろう。


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私にとってのドラえもんの声はやっぱり大山さんの声だ。アニメから作品を知り、漫画の方を手に取ってもあの声で脳内再生した。
偉大な声優の訃報が続く年だなぁと思う。ご冥福をお祈り申し上げます。


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独立門

地下鉄1号線から3号線に乗り換えて独立門までやってきた。

こちらの記事で円丘壇について触れたが、1897年、高宗が円丘壇で皇帝に即位したこの年は、独立門が建てられた年でもある。


門はかつては別の
場所に建てられていた

1890年代は朝鮮王国から大韓帝国に変わる時期である。それはまた日清戦争の結果から朝鮮王国への清の影響力が弱まると、中国大陸での列強による角逐と相まって朝鮮でも利権争いが激しくなる時期でもあった。
親ロシアであった国王の高宗はこの頃ロシア公使館に避難した(1896年2月11日から翌年まで)状態で政治を行なっていたが、多くの利権がロシアに渡ってしまいかえって列強の利権争奪戦に火が点いてしまった。
朝鮮王室による自主発展の道は険しくなってはいたが、朝鮮王国内では独立協会による自主独立と内政改革の運動も起こった。
独立協会は1896年7月に組織された。民族の自覚と民権思想、開化思想を広めるために《独立新聞》を朝鮮では初めてハングル活字で発刊したり、議会の設置要求と司法制度の近代化要求などを行なった。
さらに独立協会は清からの冊封関係の解消を内外に示すために、かつて中華への「迎合的意志」を象徴した迎恩門と慕華門(中国からの勅使を迎える施設)を取り払い、北京に向かって独立を示す独立門(と独立館)を建てたのである。











独立館

独立協会は、皇帝の誕生を歓迎しつつも、立憲君主制をめざした。しかし絶対王政を維持しようとした皇帝の高宗にとって独立協会は目障りな存在だった。独立協会は弾圧され高宗によって1898年末には解散に追い込まれ翌年には解散させられた。


こちらの面は漢字で
「門立独」(右から読む)


こちらの面ではハングルで
独立門とある。ハングルは
通常左から右に読むが、
この門の場合は右から読む

現地では気付かなかったが、かつての迎恩門の柱礎(手前の二本の柱)も置かれているのだ。
独立門はフランスの凱旋門を模したといわれる。設計はロシア人建築家サヴァディンらによるもので、施工は中国人技師が主に担当したと伝わる。記念碑的建物に関わったのが自分たちが敬遠した国の技術者であるようなことって、世界でも案外少なくないものだ。


解説板によれば、1897年
11月20日竣工とのことだ。


徐載弼(ソ・ジェピル)の像

独立協会を組織した主要人物のひとりである。独立門は徐載弼のパリ凱旋門のスケッチに基づいて、サヴァディンらによってデザイン・設計された。


独立協会解散後の徐載弼らの目に、独立門はどのように映ったか、察するにも余りある。



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