デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



宮殿を出ても通りの封鎖は続いていた



交代制を布いているのか、夜から朝までの担当と
思わしき隊員が所かまわず仮眠をとっていた。



寝ている仲間を画像に収める人もいる(笑)


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プミポン国王(ラーマ9世) エンブレム(紋章)

ドゥシット地区には宮殿が二つもある。それもあって宮殿の傍ではプミポン国王夫妻の写真やプミポン国王の紋章の存在感がとても際立っていた。
空港への出発時間が迫ってきていたので宿に戻ることにした。


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宮殿は見学を終えると、入館のボディチェックを受ける所まで戻ってくる形になっていた。入る際、日本語で挨拶してくれた女性職員が明るい笑顔で再び声をかけてくれた。「おつかれさまでした」とか「いかがでしたか」といった感じだったように思う。宮殿の印象がさらに良くなった。すばらしかったと素直に伝えた。








空が少し明るくなってきた。



ラーマ5世の騎馬像まで戻ってきた。
頭の上の鳥はいなくなっていた。


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近づいてくると宮殿の威容の誇らしいさまが分かる



入口の傍

ワット・プラケオでもそうだったように、この宮殿でも襟付きシャツと長ズボンの着用でないと入らせてもらえない。私のすぐあとからチケットブースにやってきた観光客はTシャツに短パンの格好だったので職員から更衣室に案内されていたくらいだ。
また宮殿では手荷物(カバン類)だけでなくカメラ、携帯電話などのモバイル類や筆記用具も無料の見学者用ロッカーに預ける。服装規定もあり、撮影もメモも禁止で、手ぶらのみで入館という厳格な宮殿だ。宮殿の入口には職員がいて入場券の確認ののち、金属探知機をくぐってからボディチェックを経、オーディオガイドを貸し出されてようやく入れたように記憶している。ただ、私の検札とボディチェックを担当した女性職員が私のタイ語でのあいさつに日本語で返事してくれて素敵な笑顔で接してくれたので明るい気持ちになれたのはよかった。宮殿内に入る時もオーディオガイドの日本語設定を教えてくれて「いってらっしゃい」と見送ってくれたことを覚えている。
宮殿内は別世界だった。二階へ上がる階段が最初なのだが、階段を上っているだけで天井画を仰ぎ見ざるを得なくなったことに圧倒された。ルネサンス様式の宮殿は外観だけじゃなかった。国立博物館でも玉座や輿や山車を見ていたものの、宮殿内に展示されているものは筆舌に尽くしがたい「特注品」ばかりで、金や銀や青や緑の宝石のような輝きを放っていない物がないくらいだ。オーディオガイドから聞こえる「~即位何年を記念して作られ、制作には数年を要しました」という説明はざらだ。玉虫で覆われた屏風だったか物入れもあり、玉虫厨子の現代豪華版みたいなものがあったことも覚えている。また「特注品」などに「SK」とサインがあり、それは国王のイニシャルで国王直筆サインであることも記憶している。
二階のフロアで圧倒された気持ちで展示物を見ていると、眼鏡を掛けたスーツの男性が私の方に歩いてきて、その男性には警備員がこぞって両手を合わせて挨拶をしている。宮殿内の管理者で警備員にとっては上司にあたる人なのだろう。するとスーツの男性が、You're the first person today.と私に話しかけてきた。たまたま最初の来館者を出迎えるようなタイミングになったのかも。Where are you from? と訊かれたので、手を合わせてタイ語でマ・サーク・プラテート・イープン(日本から来ました)と答えたら、「こんにちは。ようこそ」と日本語での返事だ(笑)。入館時といい二階のフロアでのことといい、旅の最後に訪れる宮殿で胸のすくような気持になれるとは嬉しいものだ。こういったこともあって、時間の許す限りじっくり見学した。

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宮殿の離れに相当する建物?



















中に入るつもりなどなかったが、近寄りすぎたみたいで、警備員からピッ!と笛を吹かれた。

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宮殿の傍にドゥシット動物園がある


















ルネサンス様式の宮殿の傍に現代的な建物と
室外機が(笑)ここにチケット売り場や荷物
預けや宮殿の売店などがあったように思う。



敷地内をちょっと歩いてみた


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アナンタ・サマーコム宮殿

ラーマ5世の騎馬像を含めたエリアはドゥシット地区と呼ばれているが、このエリアには王宮やかつての国会議事堂、王の住まいや動物園など大きな施設が集中している。


車が何台か走っていったが広すぎる道路だ









もう何年も前だがこの案内板の画像を新しい開館時間情報として
ガイドブックの会社に送ったら、お礼として最新号が送られてきた。


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ラーマ5世騎馬像を別角度から

ラーマ5世ことチュラーロンコーン王が即位したのは15歳の頃だった。父王が早くに亡くなったからだが、そのころのタイは有力貴族が権勢を誇っていた時代だったので、若き15歳の王には摂政が置かれていた。つまりチュラーロンコーン王が自分の意志で政権運営を行うことは難しく、改革をしようにも断念せざるをえなかった。
1880年代に入ると有力貴族が相次いで死去し、王は再び改革を進めた。有力貴族がいたことで分権的だった統治体系を名実ともに集権化するため、中央集権化のための省庁改革、教育制度の確立、徴兵制の導入など矢継ぎ早に実施していった。チュラーロンコーン王による中央集権化への改革をチャックリー改革というそうだ。



国内の改革のみならずチュラーロンコーン王はタイ国王として頻繁に外国へ出かけた。王がアジア圏の植民地国の近代化の進捗状況や近代化の見本となる事物を見聞したことはタイにとって大きかった。1897年と1906年にはヨーロッパを訪問し、各国の王室とも交流を深めた。見聞と交流を深めるため国王として自ら外国を精力的に訪問したのはタイでは初めてのことだった。チュラーロンコーン王はまさにタイ近代化の立役者なのだ。


鳥が去らない(笑)


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ラーマ5世騎馬像、奥にアナンタ・サマーコム宮殿



ラーマ5世騎馬像。頭に鳥が乗っているが。




有名ガイドブックでもタイ国の近代化の立役者としてラーマ5世のことを紹介していることがある。
ラーマ5世ことラッタナコーシン朝第五代目の王チュラーロンコーン王(1853-1910)の在位期間(1868-1910)は日本の明治天皇と近い。19世紀後半から20世紀初頭にかけて吹き荒れた帝国主義の嵐の中で最終的に独立を維持したチュラーロンコーン王はタイの三大王として尊崇されている。


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機動隊とブロック壁と鉄条網



一般車は通れないので道路の真ん中を
歩くことができたが複雑な気分だった。






これでもバンコクに到着した初日に
バスから降り立った同じ通りなのだ。



横断歩道も



バス停も「不在」という感じだ






ラーマ5世騎馬像やアナンタ・サマーコム宮殿、動物園
などの方には人が通れるようスペースが開けられていた。


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