デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



ネタ割れ注意です。

先日、図書館で亀山郁夫訳のドストエフスキー作『悪霊 1』(光文社古典新訳文庫)を見かけたので、手にとってみた。
現在は第一巻(本編のうち第一部を収録)まで出ている。亀山訳は先人の江川訳とは異なり、作中に登場するヴェルホヴェンスキーが使うフランス語をそのままアルファベットとその訳を日本語で書いてくれているので読みやすいのがいい。
久しぶりに読むとドストエフスキーの後期作品は本当におもしろいし、毎度のことだがドストエフスキー作品に見られる多声性には驚くばかりだ。どぎついカリカチュアとして読める小悪党ピョートルの言をとってさえ、どこが穿つものがあるのには舌を巻く。
作品は第一部を読み終えるとこらえきれなくなって、第二部は江川訳で読んでいるのだが、前回10年ぐらい前の、俗物根性を満足させてくれる「古典作品」でドストエフスキーという名を盲目的にありがたがって読んで筋すら誤読していた初読とは違って、とにかく新鮮な気持ちで文芸作品として読み進めることができて、とても楽しい。また作品内で言及されている触れられているさまざまな思想は、作品を彩る素材にしか過ぎないという視点で読むと、この作家の計り知れない力量を改めて感じる。
初読のときに惹かれた場面に、スタヴローギンとシャートフの「師弟」問答の場面があるのだが、今回もやっぱり同じ場面をおもしろく感じた。個人的にやられたと思ったのは、

「もし信仰をもっていたらですって?」相手の頼みにはいささかの注意も払わないで、シャートフは叫んだ。「でも、あのときぼくにこう言ったのはあなただったじゃありませんか、たとえ真理はキリストの外にあると数学的に証明するものがあっても、あなたは真理とともにあるよりは、むしろキリストとともにあるほうを選ぶだろうって。あなたはこう言いましたね? 言ったでしょう?」
江川卓訳(『悪霊(上巻)』新潮文庫、改版p476~477)


これがスタヴローギンが言ったとされるところが憎い(笑)。↑の場面からして、作者のことがわからなくなるのは、おそらく私だけではないだろうが、

「あなたがこう言ったとかいうのはほんとうですか、何か好色な、獣的な行為と、たとえば人類のために生命を犠牲にするような偉業との間に、美の差異を認められないと断言したというのは? あなたがこの両極のなかに美の一致、快楽の同一性を見いだしたというのはほんとうですか?」
江川卓訳(『悪霊(上巻)』新潮文庫、改版p485~486)


この辺がキーなんだろうなぁと思う。なにがキーかと言えば、作家が創作者たらんとするための資質・原点のことである。
「キリストとともにあるほうを選ぶ」というのは、たしかドストエフスキーが友人に宛てた手紙の中でかつて綴った「信仰告白」と読み取れる文ではなかったかと記憶しているが、それが小説となると途端に俯瞰したというか一歩引いた視点からの、いち登場人物による声として用いられてるに過ぎなくなる、とも読めてしまうような気がするのである。作家は自分がつむぎ出した言葉に対してさえ、時にいじわるな視点を忘れない。それが、「両極のなかに美の一致」としてまでも見る能力なのではないだろうか。ちょっと意味がとおらん支離滅裂すぎるかな(笑)。(ちなみに同じようなことは、以前、作家がずっと抱えていた持病を「利用する」場面についての感想として、こちらのなかで、書いたことがある。)

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