デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



現代の飛騨と東京を舞台に二人の高校生が時空を超えてめぐり合うファンタジー作品。昨年の大ヒット作でありブームになった。
私は正月にテレビで放送された分を録画して鑑賞したのだが、時系列が整理できず、二回目の鑑賞でようやく分かった(気になった)。
日本のアニメも作り込みがすごいものはすごいなと素直に思った。伏線の張り方も見事だし、見ていて釈然としない点もファンタジー作品ならではの巧みな処理がなされていて上手いと感じた。
ただ、いっちゃなんだが、私の周囲の人と作品について話してみて

誰そ彼、これが黄昏時の語源ね。黄昏時は分かるでしょ?夕方、昼でも夜でもない時間、世界の輪郭がぼやけて人ならざるものに出逢うかもしれない時間。

ムスビって知っとるか?土地の氏神様をな、古い言葉でムスビって呼ぶんやさ。この言葉には深い意味がある。糸をつなげることもムスビ(結び)、人をつなげることもムスビ、時間が流れることもムスビ、全部神様の力や。わしらの作る組紐もそやから神様の業、時間の流れそのものを表しとる。寄り集まって形をつくり、捻じれて絡まって時には戻って途切れ、また繋がり、それがムスビ。それが時間。

水でも米でも酒でも人の体に入ったもんが、魂と結びつくこともまたムスビ。

口噛み酒やさ。ご神体にお供えするんやさ、それはあんたらの半分やからな。
作品で語られる上のセリフを聞き逃していたり頭の片隅に置かないままだと、この作品内の氏神様による神秘的で不可思議なストラクチャー(構造)と理(ことわり)を理解できないし、おそらくこのあたりのことを整理できてないまま初見で終わっている人も少なくないのではと思わざるを得なかった。
昨年、作品を見た人の多くが「泣いた」という口コミを耳にしたが、私には上のストラクチャーを忘れ、かつて読んだことのあるような物語の進行を思い出したり自分の若かりし頃の夢想や情熱を彷彿とさせる場面で思い入れが強くなってしまったことから、我を忘れて感動し涙したのではと思えた。
作品として公開された以上、作者の手を離れてしまったら作品は鑑賞者のもの、鑑賞者が「自分のもの」としていかようにも見ることができることに対し異を唱えるつもりはないが、見終わったカタルシスのみで「よかった」だの、未だ名も知らぬ運命の相手とつながっている赤い糸だの、時空間を超えての一途な愛だの、といったフワフワっとした一言で作品の感想として終わらせてしまうのはもったいない気がする。


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