デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



トマス・ピンチョン作(佐藤良明 訳)『競売ナンバー49の叫び』(新潮社)読了。

昔、少しだけ関係を持った男が亡くなり、その男から遺言執行人に指名された女性が主人公である。遺言執行のすべての過程があらゆる点で思わせぶりで、謎めいている体の性質の悪い悪戯かもしれず、彼女の前に現れる人物やものごとは意味があるようで結局何も言っていない戯言の集積のように思えたりするものの、彼女が訪れる土地にはその土地なりの誰も疑いを抱かないルールや力学が漫然と存在していて、あれよあれよという間に遺言執行への手がかりが喪われていく…書いてあること自体は決して難しいわけじゃないが、正直読んでいて大変困った気になった(笑)。
文章はいたって平明、私などが解釈をしなくてもよく深く考えなくとも見ただけで笑えるような文章で、文学臭漂わない感じだ。昔の喫茶店に点けられているTVの音声がなぜか頭に入ってくるようなものかもしれない。
妙なことにテクストの内容を手でしっかり掴もうとするとスルリとかわされて、不確かなものがあることだけは確実に分かるというモヤモヤ感覚が残るというか…。とはいえ、作品に出てくるものごとが、あたかも現実世界の性質を表していないのかといえばそうでもないところが面白い。たとえばアメリカの建国から現代へ発展する過程で秘めておきたいような裏事情が遺言執行への旅に彼女の前に顕われる様は現実のアメリカには起こりうることのように感じられて非常に興味深い。
こんな風に書いたものの、全体として釈然としないと感じるのは事実だ。不確かさへの嫌悪を抱いて読むような私のような読者には、結末の不在のみならず作中の自己の認識を疑わせるものも混然となって襲ってくるダブルパンチを食らった気になる(笑)。
なんだか私にとって『競売ナンバー49の叫び』は読者を煙に撒き、述べようとする感想の内容をトートロジーに陥らせる作品だ。たぶん作品内に散りばめられたキーワードや語呂合わせから深読みもできるのだろう。ただ深読みを試みたところで肩を透かされ、嘲笑われているような感じしか残らないのではないかと思った。

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