ヨッパライの運転は、どう、動くのかワカラナイ。
だが、バイクは、ドライバーから見ると、ヨッパライであってもなくても、どう、動くのか、ワカラナイ。
具体的に。
スリ抜けや、強行加速などの場面を目にした一般のドライバーは、「アブねぇなぁ!」と感じるのがフツーの感覚だ。
彼らはバイクを見ると「ブツけられるかも知れない」と警戒せざるを得ないのだ。
クルマの後に並んだら並んだで、ヘッドライト光が「まぶしーなぁ、ったく!」ってな具合だ。
そして、飲酒運転そのものが作為的であり、スリ抜けや強行加速も作為的である点も共通している。
事故要因の存在、と言う意味では、一般のドライバーの意識は飲酒運転も、バイクも、さほど変わりはないのが実情と思う。
ドライバーの目線では、バイクはヨッパライ運転と等価値の認識なのだ。
駄菓子菓子。
ライダーの目線では、その認識はとんでもない誤解なのだ。
全く同じシチュエーションでも、物理的に、事故ったトキの負担は明らかにバイクの方がリスクが高い。最悪の結末を迎える確率は、どう考えても、バイクの方が、高いのだ。
だから、相応のリスクを読み込み、対応を準備した上で、ライダーは走る。
そして、ソレは、ライダーしか知らない世界なのだ。バイクに乗った経験のあるドライバーでも、その瞬間瞬間における、目前のライダーの持つリスクの読み込みを共有することはできない。
ライダーのリスク負担は、ドライバーには意識されないのだ。
だから。
オレはオレのリスクの読み込みで、やりたいように、やらせてもらう。
事故らない事故らせないなら、何をやったって、オレの勝手だ。
オレは、絶対に、事故らない。
「そんなこと、わかんねーだろ」って言われる。オマエは、自分自身が事故るかも知れない、って思う程度のリスクの張り方なのだ。
オレは、オマエみたいなボウヤでは、ない。もちろん、未来が見えないのはお前と、同じ条件でも、だ。
どうせ、ドライバーにとって、バイクは、ヨッパライ運転の車両と等価値なのだ。
どうせ、オレのリスク負担は、ドライバー達には理解されないのだ。
どうせ、起こりうる結果は、全て自分持ちの、自己責任なのだ。
だから、オレは、走りたいように、走る。
責任は、全て、自分持ちだ。
「そんなコト言ってるヤツがいるからライダーの社会的地位が上がらんのだ!」
おいおい。オマエ、オレが死んだら、何か責任とってくれるんかい?
あるいは、ライダーの社会的地位向上に、オマエ、何か、責任負っているんかい?
そんなおためごかしヤローは、自分の不安を他者にぶつけているだけに過ぎない。
安全運転をオレに訴えるコトができるのは、オレの家族と、事故の被害者/家族もしくはソレを真摯に償っているヒト、だけだ。
機体と人命を尊重して、日々のライドに臨みたい。
ヒトの社会の約束事の上に、胡坐をかいた、傲慢な発言だな。
否定しないよ。