
疾い、とは、どのくらいが疾いのか。
ヒトとマシンによっては、70Kが疾いと思うこともあるだろうし、250Kじゃぁ満足しないケースだってあるだろう。
まっすぐな高速路なら200Kだってそんなに疾いモノではないと思うが、駅前の居酒屋の前では、40Kだって出しすぎだ。
そんなことは、みんなが、知ってる。
では、マシンや路面、天候など与条件が同じなら決着は付くのだろうか。
攻める気マンマンの若者と、70歳のロングライダー。マモノに魅入られてるヒトと、守るべきものがたくさんあるヒト。こんな極端な例を挙げなくても、見込んでいるリスクの斟酌によって、与条件が同じであっても「疾さ」の軸は大きくズレ込んでくる。
そう。「疾さ」とは客観的には相対的なものであり、個人的には絶対的なものなのだ。客観的な絶対値は無意味な数字の羅列でしか、ない。
そして、これは、不可侵な個人的領域で、各々の「信じるもの」に他ならない。
彼のこの領域へ無神経に土足で踏み込む者は、彼より「軽蔑」という手痛い制裁を受けることになるだろう。
ただし。
そもそも、「疾い」コト自体に価値があるのか、と言う御仁もいると思う。
これは、信念を持って否定する。
バイクを疾く走らせることには、価値があるのだ。
正確には、疾く走らせようとする意志に、価値があるのだと思う。
自分自身はちゃんとバイクを操ることができている、そんな実感を持つライダーはそんなに多くはないと思う。なぜなら、ライダーは「路上にいる限り、バイクは常に事故と隣りあわせ」という意識に拘束され続けるからだ。
この意識に拘束されない者は、バカか、マモノに魅入られている。いづれにしても僅かなヒトなのだと思う。そして、遠くない将来、自らの身体的もしくは経済的損失をもって、この自らの傲慢さに気付くだろう。
この意識に拘束され続けながら、リスクを削り込みつつ、自分にムチをクレて、バイクを疾く操ろうとする意志は、真摯に自分の生に向き合う、脆弱ながらも尊いものなのだと、オレは、信じて疑わない。
そして、年齢を重ねながら、この意志を珠輝させ続ける自己を保っていくのは、並大抵の研鑽ではないと思うのだ。
オトナは解っている。「んな、アブナイこと」「バカげてること」「意味のないこと」。
オレだって、そんなのは知ってる。
そして、そんなヒトは大概、「んな、アブナイコトに価値があるのか」と言う。
ばか者め。
ヒトを見下して何言ってやがる。
んなこたぁ判っている上で、アクセルを開けるのだ。オレのそんなトコさえ見抜けないくせに、ふざけたコト、言うな。
オレにそんなこと言えるのは、オレを愛していてくれる、父と母と家族だけだ。
んデモ、オレは疾いか遅いかには、興味は、ない。
なぜなら、オレってば、クチだけだから、さ。



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