私が住んできた家 2

2014年02月11日 | 健康・病気

高島平団地で暮らしていたときに一度だけ、飛び降り自殺の現場に遭遇したことがあった。
息子たちを双子用ベビーカーに乗せ、女房と散歩しているときに人が沢山集まっている所があった。
そこにいた人々の話を聞いていると、飛び降り自殺だといっていた。
私と女房は急いでその場から去った。

高島平団地には2年ぐらいしか住んでいなかった。
公団住宅は、4人家族になると2DKに住宅変更が出来た。
それで1DKの高島平団地から鶴瀬団地(埼玉県富士見市)の2DKに引っ越した。
このことは、双子で生まれてきてくれた息子たちに感謝した。
富士見市には、市民吹奏楽団があって、私は入団してトロンボーンを吹いた。
水曜日に、コミュニティセンターのホールで練習していた。
指導者は、東京シティ・フィルのチューバ奏者で、素晴らしい指導をしてくれた。
その人は、ジャズのフルバンドにも参加していて、私たちは渋谷でのジャズコンサートに行ったりした。

息子たちが幼稚園のときに新所沢のテラスハウスに引っ越した。
テラスハウスというのは、2階建ての長屋で小さな庭があった。
その庭に私は小さな花壇を作って、チューリップやバラや水仙などを植えた。
そこに住んでいたのは、息子たちが幼稚園から中学3年までだった。

息子たちが中学生になった頃、新所沢団地の建て替えの話が起きた。
建て替えになると家賃が高くなり住めなくなってしまうかな、などと不安になった。
家を買おうか、などと女房と話し、実際に不動産屋に行き、中古住宅を見に行ったりした。
しかし、その頃の私たちには家を買う資金がなく、家を持つことを諦めた。
建て替えは駅前の住宅から始まった。
テラスハウスを壊して、高層の建物になった。
駅前の建て替えが完成して、そこに住んでいた人たちが最初に入居した。
そして、残っている家に、団地の人たちが入居出来る案内が来た。
傾斜家賃なので、最初の頃は家賃が安かったから私たちにも住めた。
建て替えられた建物の家に、入居するための順番を決めるくじ引きがあった。
団地の集会場であったくじ引きで、私は1等を引いた。
そんなことは私の人生にとってその前もその後もない。
私は、住宅を一番最初に選べる権利が出来た。
それで、7号棟の5階(最上階)の3LDKを選んだ。
新築の家は気持ちよかった。
中学生の息子たちに、それぞれの部屋を与えられたことは良かった。
それまでは、ひと部屋で2段ベットに寝ていた。
                                                     つづく

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