昨日、2人の友人と新所沢駅の近くの居酒屋で飲んだ。
2人の職業は、私が憧れていた教師です。
1人は、3月に60歳で退職します。
もう1人は65歳で、これまで週に2日教師として勤めてきました。
私としては、なんといっても青春時代憧れた職業ですから、2人がうらやましい。
そのお2人が教師という職業を辞められる。
いや、65歳の友人は年間20日ということで教師を続けられる働き方があるという。
今彼は、微妙に悩んでいます。
友人2人は、大学を出て教師という一つの職業だけを続けてきた。
私は、高校を出て20いくつかの仕事をやってきた。
なんで私はこんな人生を生きてきたのだろう? と思った。
教師という職業につこうとして18歳のとき、
薬品会社に勤めながらお茶の水の予備校に通ったが、
受験勉強についていけなくてやめてしまった。
このことを私は今でもハンセイしています。
私の親の職業は農業です。
タバコと米を主体としていた“百姓”です。
私の中学の同級生はみな、高校受験のとき県立と私立を受けていた。
私立はすべり止めです。
私は、県立しか受けさせてもらえなかった。
「県立に落ちたら大工になれ」と親父にいわれた。
私は最初、電車通学する下館一高を受験することにしていた。
それが親父からいわれて地元の県立岩瀬高校に行くように変更した。
私が想像するに月々の電車の定期代が払えないからだと思った。
私は、その地元の高校の合格発表を見に行って哀しくなった。
私が友人として付き合っていた彼らは、その高校にはいなかったのです。
私の高校生活はつまらなかった。
吹奏楽部で活動していたときはそこそこ楽しかったが、つまらなかった。
なにしろ学校で話す人間がいなかった。
私は毎晩、ラジオの深夜放送を聴いて、同世代の人の意見を聴いていた。
北山修のパック・イン・ミュージックが好きだった。
世の中に対する高校生の意見などを聴いて、
(おれはこんな茨城でなにやってんだ)と思っていた。
あの頃の自分と65歳の私は、まったく変わっていない。
いくつになってもダメな私です。
話がそれてしまいました。
こんな私ですが、つきあってくれる2人がありがたいです。
私が現在、居酒屋で飲めるのは肥さんと翔空さん、2人だけです。