唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

白紙の手紙

2006-07-03 18:59:38 | Weblog
大暦年間、宰相元載の威権はすさまじいものであった。

陸某は載の家に長く仕えていた、実直ではあったが才学がまったくなく
載も位階は与えても実職につけてやることはなかった。

ある日、某は載の子伯和に頼み込んだ。
「ぼっちゃま、私も長くお家に仕えていましたが、歳も歳ですし故郷に帰りたくなりました」
「それは残念だな」と伯和
「長い間の京師ぐらしで、すっかり家産をなくしてしまいました。故郷付近の地方官に任じていただくよう、なんとかお父上にお願いしてもらえませんでしょうか」

宰相の父より傲慢といわれている伯和も、幼少の頃より家にいる某の願いは無視できませんでした。
「某を県令にしてやってはいかがでしょうか」
「某か、某ではやっていけまい」と載
「引退するにも財産が必要ですし」と伯和

その話があってから数日後、某は載に呼び出された。
「この手紙をもって幽州節度使へ言ってくれ」
「は、どのような用向きで」
「なにも聞くな、非常に重要な事だ、手紙を渡せばよい」と載

某は分厚い手紙をもって幽州へ赴いた。

宿屋に落ち着き、明日は節度府へ行く夜だった
某はにわかに心配になってきた
「用向きはなんだと問われてもなにも答えられない」
なんとか内容の一端でもしろうと、手紙の厳封をとき開いていった。

ところが出てくるのは白紙ばかりだった。
ただ末尾に載の自筆で署名がしてあった。
某は真っ青になった。
「こんな手紙をもっていったらどんなことになるんだ」
「馬鹿にするなといって殺されるかも」
といって無能な某には策がわいてこなかった。

翌朝、怯えながらも節度府に趣き、掌書記の劉に手紙を渡した。
宰相からの使者とあって、丁重な待遇を受けながらも某は落ち着けなかった。

「これはどういうことだ」
劉も手紙を開いてみて呆然としていた。
あわてて節度使の朱の所に行き報告したが、朱も首をひねるばかりだった。

「もしかしたら、あの事がばれたのでしょうか」と劉
「すべてわかっているぞという脅しか」と朱
「あれなら手紙にかけるような内容ではありませんしな」と劉
「署名は間違いないのか」と朱
「はい、宰相の手跡なのは確かめてあります」
「どうする、まずいぞこれは・・・」
「贈り物をしてみのがしてもらうしかありませんな」と劉
「これは相当出さねばならんな・・・」と朱

某は丁重な饗応を受けたあと、載宛に数十駄の贈り物をもらって帰途についた。
もちろん使者の某にも莫大な物が贈られていた。
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譲馬の功

2006-07-03 18:09:13 | Weblog
安禄山との潼関の戦いで皇帝軍が敗北し、將王思禮は乗馬を失い危地に陥った。その時騎兵の一人が自分の馬を提供し逃れることができたが、兵の名前を知ることはできなかった。

その後思禮は軍功を重ね河東節度使[山西省付近]に昇進した。

当時、部下となる代州刺史辛雲京は、思禮に疑われており、申し開きをするすべがなく苦慮を重ねていた。

「節度使は私を疑っている、会ってもくれない」と雲京
「私が思禮様の所に言って申し開きをしましょう」と將張光晟
「なにか伝手があるのか」と雲京
「大丈夫です。必ず話を聞いてくれます」と光晟

そして光晟は太原府の思禮のもとに出頭した
「あのときの兵ではないか、なぜ今まで名乗りでてくれなかったのか」と思禮は身分の差をかえりみず、手をとって喜び
「あのとき馬を譲ってくれなければ、現在の私はないのだ。なんでも願いをかなえよう」と兄弟の盟を結んだ。

光晟のとりなしで雲京の事も了解しすべては無事に収まることとなった。

後、雲京は河東節度使となり、光晟も代州刺史となった。
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