僕固懐恩は、蛮族である鉄勒の酋長の末であり朔方軍の將として勇名をとどろかせてきた。
安史の乱には郭子儀に従い功績が多く、郭子儀が宦官に疑われて排斥されると、代わりとして副元帥となり援軍のウイグルとともに史朝義を討滅した。
しかし乱の終了とともにやはり宦官から猜疑され反乱に追い込まれてしまった。
懐恩は慰留に来た宰相裴遵慶に泣いて訴えた。
「この戦いで一門を46人もを戦死させてしまいました。しかも敗走してきた我が子を軍律のため自ら斬りました。援軍を得るために娘をウイグルにさしだし、苦しい戦いを重ねること数年、やっと乱を鎮めたのに、功を賞せられることなく、かえって叛逆者扱いをされるのはなぜですか、私が蛮族だからそのような扱いをうけるのですか」
遵慶はひたすらなぐさめ入朝をすすめたが、納得させるような方策を示すことができなかった。
しかし結局、反乱者とみなされることになり憤然として北辺に去った。
翌永泰元年に懐恩は吐蕃・ウイグルなど蛮族二十万を率い来寇したが途次に病死した。
安史の乱には郭子儀に従い功績が多く、郭子儀が宦官に疑われて排斥されると、代わりとして副元帥となり援軍のウイグルとともに史朝義を討滅した。
しかし乱の終了とともにやはり宦官から猜疑され反乱に追い込まれてしまった。
懐恩は慰留に来た宰相裴遵慶に泣いて訴えた。
「この戦いで一門を46人もを戦死させてしまいました。しかも敗走してきた我が子を軍律のため自ら斬りました。援軍を得るために娘をウイグルにさしだし、苦しい戦いを重ねること数年、やっと乱を鎮めたのに、功を賞せられることなく、かえって叛逆者扱いをされるのはなぜですか、私が蛮族だからそのような扱いをうけるのですか」
遵慶はひたすらなぐさめ入朝をすすめたが、納得させるような方策を示すことができなかった。
しかし結局、反乱者とみなされることになり憤然として北辺に去った。
翌永泰元年に懐恩は吐蕃・ウイグルなど蛮族二十万を率い来寇したが途次に病死した。