唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

怨望

2006-07-15 11:36:40 | Weblog
「ふざけやがって、俺達がどんな思いをしてきたと思っているんだ」

源休は荒れ狂っている。

遠く回紇へ使に行った功として光禄卿に任じられたのである。

「光禄卿? 窓際族扱いじゃないか」

対応が難かしい回紇への使者なら普通でももっと報われて当然である。

しかも今回は、振武の張光晟が回紇の使者達を殺害した後である。

当然、回紇国内は激高して、休達の生命すら危うかったわけである。

長時間、雪中に立たされ問責され続けた。

それを必死に陳弁して両国の平和を保ってきたのだ。

宰相に任じられてもおかしくないはずだ。

せめて実入りの良い節度使ぐらいに任命されて当然だ。

それなのになんの利益もない光禄卿だ。

「盧杞の野郎、今にみておれ」

休の宰相盧杞に対する怒りはつのっていった。

まもなく起こった朱の乱では真っ先に参加し、その宰相となった。
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背信の詩人

2006-07-15 10:36:10 | Weblog
「なぜいつまでも言われねばならないんだろう」
「たいしたことをしたわけじゃないか」
李商隠はとぼとぼと長安の街を歩いている。

河陽節度掌書記になったことに対する批判は強かった。

仲間からは裏切り者という目でみられた。

もともと商隠は、牛李の党争では牛派の令狐楚の配下であった。

楚の死後、職がない時に
河陽節度使王茂元に気に入られ登用されることになった。

茂元は李派であり、当時は李徳裕の絶頂期であった。

貧乏な商隠としては、おいしい話であったので、あまり考えもせず引き受けたのだ。

ところが今はうってかわって牛派の時代。

そのことが旧悪とされ、排斥されるようになってしまった。

今日も楚の子の綯に頼みに言ったのだが、一顧だにしてもらえなかった。

「おまえは節操がなさすぎる」という返事だった。

もっと小物なら赦してもらえるはずなのだが

世間には詩人として有名なのでより厳しくあたられるのだろう。

「もう官界では生きていけないのだろうか」

商隠は長安の街をとぼとぼと歩いていた。
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