唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

命を奉じる

2006-07-09 12:44:16 | Weblog
「ならんと言われるのか!!」
河東節度使李載義は怒りに震えていた。

三年前幽州節度使であった載義は、楊志誠の裏切りによって逐われた。

幸い、朝廷に忠義を尽くしていたので山西節度使として拾われ、その後河東へ転任してきた。

今。楊志誠もまた軍乱に逐われて京師へ逃亡して来るという。

載義はその途を襲い怨みをはらそうとしていたのだ。

「志誠、不忠とはいえ朝臣です。法の裁きがなければ殺してはなりません」と使者

「きゃつが俺の家族に加えた陵辱や、部下達の家族を虐殺したことを我慢しろとおっしゃるのか」
「たとえ免官となろうとも、怨みをはらさねば、部下達にあわせる顔があろうか」

とはいいつつもも、載義は助けてくれた朝廷の恩との間で迷っていた。

使者は「勅命をよくお読みください、志誠を殺すことはまかりならんと」と繰り返した。

「志誠を・・・・・」

やがて載義はにっこりして言った。「臣、確かに命を奉じます」

そして部下達に命じた「襲え、だが志誠を殺してはならん」

襲撃され、志誠の家族や部下のほとんどは虐殺された。

ただ数人の部下とともに志誠は京師にたどりついた。

その後志誠は有罪とされ嶺南に流され、途次に殺された。
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藪をつついて

2006-07-09 08:40:10 | Weblog
「横暴な武寧軍の兵士を抑えるには・・・」
「単なる進士出身の者には・・・」

先ほどより帝前では、大府卿崔拱(こう)が滔々と論じていた。

王智興が転じた後、彼がさんざん甘やかせた武寧軍の兵士達は
新任の節度使高禹(う)を追い出したのであった。

禹も他の地域の節度使としては有能なほうであったのだが!

「兵士の集団を扱うときは・・・」まだまだ拱は調子に乗って論じていた。

「三年勤めると大金持ち、五年勤めると孫の代まで」といわれる
実入りの良い嶺南節度使を約束されて気持ちが高ぶっていた。

皇帝はすっかり感心してしまった。
「朕はそなたを武寧軍節度使にすることにした。嶺南は王茂元にでもやらせよう」

拱は愕然としてやりすぎを悟った。

しかし今から引くことはできない。

「承知しました。武寧をしっかり抑えてみせましょう」

そしておのれのおしゃべりを悔いながら退出していった。
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