唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

魏博の帰順 その2 田弘正

2006-07-21 18:56:50 | Weblog
「魏博で軍乱がおきたようだの」
「また軍乱か、あそこはよく乱れますな」
「ほっておけばよいのですよ、あいつらは勝手にやっているんですから」
「自立した奴を追認するだけでいいんですよ」
皇帝と宰相達の会話である。

そこへ宰相の一人李絳がやってきて言った。
「田興は魏博六州を朝廷の管轄に戻すと上奏してきています」

「まさか、そんなことはあるはずがない」と李吉甫

「いや本当です。官吏の任免も求めてきました。」
「興は田家の傍流です。そのため朝廷の承認が必要なのです。」と絳

皇帝も興奮して言った。
「もしそうなら反抗的な成徳の王承宗や平盧の李師道を分断できる」
「田興を留後として認めてやろう」

河北等の半独立の節度使は、まず自立した者が任命を願い出て、
留後となり、牙軍が節度使として推薦してそれを朝廷が認めるという
方式をとってきたのだ。

李絳が言った。
「留後では牙軍のおかげで昇進したという方になります」
「興を一気に節度使に任命しましょう。そうすれば彼は帝の恩を感じ、牙軍に遠慮する必要がありません」

「そうだな名前も与えてやろう、”弘正”はどうか」と帝も乗り気だ。

「さぞ感激するでしょう。それに将兵への恩賞もはずんでやりましょう」と絳

前例のない速さで、興は節度使に任命され感激した。

魏博の將士も莫大な賜物を与えられて文句なく忠誠を誓った。
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魏博の帰順その1 田興

2006-07-21 17:53:47 | Weblog
「興様こそ節度使に」

「家奴に操られる小僧などいらん」

数千の牙兵が、田興の屋敷を取り囲んで気勢を上げている。

軍乱が始まろうとしていた。

前魏博節度使田季安が、若くして死んだ数ヶ月後のことだ。

季安も残虐で気まぐれで軍政を真面目に執らなかった。

しかし皇帝の孫[公主の子、実際は養子]であるという権威で抑えつけてきたのだ。そのことで兵達の不満が鬱積していたのだ。

あたふたと節度使を嗣いだ幼児の懷諫などでは抑えきれない事態だ。

「やはり節度使は興様しかありません」

「しかし俺は傍系だ、嫡流の懷諫を押しのけることなどできん」
と儒学を学んだ興は名聞にこだわる。

「そんなことを言っていると田一族みんなが追い出されてしまいます」
と興の家臣達

しかたなく興は出座して、説得しようとするが、牙兵達はいきり立って聞かない。

そこで興は言った。

「魏博六州を皇帝の支配下に移すつもりだぞ」
「懷諫様に危害をくわえるないな」
「そのことを皆が承知するなら節度使になる」

牙兵達はあまり考えもせず歓声をあげ承認した。

そして節度府に突入して、懷諫の家奴達を殺した。

興は自宅に帰り悩んだ。
「朝廷は俺が嗣ぐことを認めるだろうか、叛逆として責められるのではないか」

兄の融を朝廷への使いに出すことにした。

時は元和七年八月の事であった。
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