唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

平盧軍解体

2006-07-26 18:20:23 | Weblog
「ついにやったぜ」

「次は悟様が節度使です」

「バカ殿一族ともお別れですな」

大将の劉悟が裏切って、平盧軍節度使李師道を殺して数日がたっていた。

五十年以上にわたって自立していた強大な平盧軍が平定されたわけである。

師道には何度も帰順する機会があった。

しかし彼の優柔不断と、取り巻きの諸将がそれをゆるさなかった。

実は悟もその取り巻きの一人であった。

ゆがて征討軍の大将魏博の田弘正からの使者がきた。

「ついに節度使ですぜ、俺には曹州を、奴には海州をお願いしますぜ」

諸将は期待にざわめいた。

「悟を郡王に封じ、義成軍節度使に転任させる」

「平盧は三分割し、薛平・馬總・王遂をそれぞれの使とする」

朝廷の命令は悟らが愕然とするものであった。

長い間の自立がこれからも保てるという甘い観測が打ち砕かれた。

「一刻も早く義成に移られよ、遅れれれば諸軍は君を討つ予定だ」

という弘正からの手紙に悟は震えた。

即日悟は取り巻きの幕僚のみをつれて滑州(義成)に走った。
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塩争い

2006-07-26 09:18:53 | Weblog
「金がない」

「せっかく再編した禁軍を養うだけの金がでてこない」

観軍容使田令孜は悩んでいた。

黄巣からやっと京師は取り戻したものの

荒れ果てた關中地方からはろくに税も入ってこない。

金蔵であった淮南や両浙地方からも多少の貢物のみだ。

しかし軍備充実は急務になっている。

といって皇帝の体面というものもあるので、他の節度使と同じように軍備だけというわけにもいかない。

「そうだ塩だ」と令孜は思いついた。

關中など内陸部の塩は海塩ではなく、河中の塩池や四川の塩井からくる。

塩は専売制であり、誰もが買わずにはおれない。

ところが四川塩井は令孜の弟陳敬宣の金箱である。

河中の王重栄の塩池を取り上げるしかない。

そこで「おとなしく渡せば栄転させてやろう、さもなければ追討しよう」
と重栄に通告した。

京師回復の功臣重栄も、金のためならすぐ逆臣となる。

「ふざけるな、塩池を無くしたら河中軍はどうなる」と重栄

しかし単独では禁軍に勝てるわけはない。

「河東の李克用にたよるしかないか」

蛮族の沙陀ごときに頭をさげるのは癪だが背に腹は替えられぬ。

重栄は息子に克用の娘をもらい同盟を固めた。

せっかく収まりかけた紛争がまた拡大することになった。
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