唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

蕭何・曹参ありとも

2006-07-10 19:41:54 | Weblog
長慶四年三月その報せが入った。

「故山東節度使牛元翼の家族を成徳の王廷湊が皆殺しにしたそうだ」

元翼は元成徳の將、廷湊が反乱を起こし節度使田弘正を殺したときに
朝廷に帰順した。廷湊は元翼が籠城した深州を攻囲していたが、
みずからの節度使公認と引き替えにしぶしぶ脱出をゆるしたのだった。

山東節度使となった元翼は家族の引き渡しを求めたが、廷湊はなかなか
渡そうとせず。元翼が死ぬとこれ幸いとばかり虐殺したのだ。

皇帝はさすがに衝撃を受け、事態を解決できぬ宰相達の無能を嘆いた。

しかし学士韋處厚は言放った
「陛下は宰相の無能を言われますが、いくら蕭何や曹参[前漢の名宰相]など能臣がいても用いることができないようではいけません。裴度は有能ですが、陛下はそれすら登用されないのです」

皇帝は不快そうに沈黙していた。

潮時

2006-07-10 17:54:50 | Weblog
「潮時ですな!」
「潮時かな?」と武俊

時は興元元年正月、朱の反乱で京師を失った皇帝は大赦を発して、おのれの間違いを謝した。
自立して反乱を起こしていた王武俊も赦されたわけではある。

「これ以上戦っても利益はありませんし」
「ここ数年間の戦乱で成徳六州は荒れ放題です」
「金も米もほとんど残っていません」
武将達も戦いに疲れて厭戦気分である。

李宝臣が死んで以来、三年間の戦乱が魏博・成徳の管区では続く。
武俊もその中で成徳節度使の地位を求めて戦い続けてきた。

「魏博の田も戦いをやめたいでしょう」

「しかし幽州の朱滔が納得しまい」と武俊

「奴の所は戦場になっていませんからな、蛮族を引き込んでこちらの土地を荒らすばかり」

「河東の歩兵や昭義の弓兵と組めば、滔を破ることはむつかしくありません」
「騎兵にはこちらも自信があるしな」

「今なら皇帝はこちらの自立を認めます」
「同じ主君なら遠いほうが良いというではありませんか」と息子の士眞も賛成した。

「潮時だな」と武俊はつぶやいた。