唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

荊南節度使 その3

2012-01-01 21:34:35 | Weblog
・黄巣進寇後の荊南は、段彦謨→陳儒→張瓌と無能な武将による武断政治の
為荒れ果てて荒涼としていた。
・文徳元年[888年]將成汭が江陵を支配し良政をしいたため、数年のうちに萬戸に回復していった。
・しかし成汭の支配地は江陵付近の数州にすぎず、特に州には蛮族雷満が盤踞して
周辺を掠奪してまわっていた。
・天復三年[903年]成汭は朱全忠の求めに応じて東下し、鄂岳杜洪・江西鍾傅を支援して
淮南楊行密を伐とうとした。しかしその留守を州雷彦恭に襲われ江陵は陥落した。
汭はそれでも侵攻をつづけようとしたが、動揺した配下は崩れて敗死することになった。
・再び廃墟となった江陵には山東趙凝の弟明が拠った。
・天祐二年[905年]朱全忠の侵攻によって明は劍南に奔り、江陵は全忠の支配下となった。
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淮南西道節度使 その1

2012-01-01 17:09:37 | Weblog
・至徳元年[756年]安史の乱に際して許州に淮南西道節度使が設置され、許・鄭・蔡・申・光の
五州を管轄した。節度使は萊瑱であった。しかし混乱期の為実質的には機能していなかった。
・乾元元年[758年]鄭州に移治され魯が節度使となったようであるがこれも不明確である。
・乾元二年[759年]自殺した魯のあと彭元曜や李抱玉の名前がみえるがこれも虚名と考えられる。
また王仲昇が申沔等五州節度使として表示(新表では領申光壽安沔蘄黄七州である)されている。
・寶應元年[762年]節度使王仲昇が申州で賊将謝欽譲に捕らえられると、唐朝は山東萊瑱に淮西
十五州節度使[安州刺史充淮西申安蘄黄光沔節度兼河南陳豫許鄭汴曹宋潁泗十五州観察使]への
異動を求めた。しかし十五州の大半は賊領と戦乱地域であったので萊瑱は喜ばず山東に止まることを求めた。
・淮西は廣元年[763年]以降は李忠臣(平盧軍出身の董泰)が安州を中心とした領域を管轄していった。

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荊南節度使 その2

2012-01-01 09:19:10 | Weblog
・淮西鎮定後、荊南節度使は重視されず、太和6年[832年]には
都団練観察使に格下げ(~開成3年)された。
・文官の赴任地であるが、太和以降は宰相の回遊地(退隠・左遷という場所であるが)
ともなった。李石・鄭肅・白敏中・蕭鄴・裴休・崔鉉・徐商・杜悰・劉瞻・路巖などがみられる。
・乾符四年[877年]流賊王仙芝が荊州を攻め外城を落とした。文官の節度使楊知溫は対処できず
内城に籠もってすくむばかりであった。山東節度使李福が派兵し撃退させたが、
唐朝は武将西川節度使高駢を転任させて備えた。
・乾符六年[879年]宰相王鐸は廣州を占拠して北上を狙う黄巣に対抗するためみずから都統とし
て江陵に赴任し、泰寧節度李係[晟の子孫]を湖南観察とした。
・黄巣は湖南を急襲し係は一戦もせず逃亡し軍は潰滅した。鐸もまた江陵を棄てて逃げた。
・黄巣は江陵を陥したが、山東節度使劉巨容らに荊門で迎撃され大敗して奔った。
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