・至徳元年[757年]7月安史の乱に際して採訪使を移して慶州に關内節度使が設置されたようである。
前蒲州刺史呂崇賁が初代節度使であるが混乱期であり機能したとは思えない。12月には王思禮に交代した。
・思禮は郭子儀などと共に京師回復につとめ、乾元元年[年]には敵に捕らえられた程千里のあとを嗣い
で潞沁節度使を兼任するようになった。
・乾元二年[759年]思禮は河東節度使に移り、朔方節度使より分離した形で邠寧節度使[邠寧慶鄜坊丹
延原九州]が置かれた。
・上元元年[790年]宦官勢力に敬遠された朔方郭子儀がお飾り的立場で節度使となったが、
邠寧・鄜坊の節度副使達が実務にあたっていた。
・その後短期に臧希譲・張蘊らが交代したが節度使としての実力は乏しく、廣元年[年]には
吐蕃の攻撃をうけて陥落した。
・廣徳二年[764年]安西行軍節度使白孝が邠州に入り吐蕃の攻撃に耐えた。
・大暦元年[766年]同じく安西系の馬璘が節度使となり連年続く吐蕃の侵攻に対する防戦に努めたが、
形勢は極めて不利であった。
・大暦三年[768年]邠寧単独では吐蕃の侵攻を防ぐには力が足りず、馬璘は原節度使を分鎭して移動し、
強力な朔方・河中軍を率いる郭子儀が邠寧慶の三州を管轄して防衛の責任に当たることになった。
邠寧の旧安西軍は貧寒の地である原に移ることは不満で軍乱を起こしたが鎮圧された。
郭子儀は河中に本拠を置き、吐蕃侵攻時には邠州や奉天に進出するという形を取った。
前蒲州刺史呂崇賁が初代節度使であるが混乱期であり機能したとは思えない。12月には王思禮に交代した。
・思禮は郭子儀などと共に京師回復につとめ、乾元元年[年]には敵に捕らえられた程千里のあとを嗣い
で潞沁節度使を兼任するようになった。
・乾元二年[759年]思禮は河東節度使に移り、朔方節度使より分離した形で邠寧節度使[邠寧慶鄜坊丹
延原九州]が置かれた。
・上元元年[790年]宦官勢力に敬遠された朔方郭子儀がお飾り的立場で節度使となったが、
邠寧・鄜坊の節度副使達が実務にあたっていた。
・その後短期に臧希譲・張蘊らが交代したが節度使としての実力は乏しく、廣元年[年]には
吐蕃の攻撃をうけて陥落した。
・廣徳二年[764年]安西行軍節度使白孝が邠州に入り吐蕃の攻撃に耐えた。
・大暦元年[766年]同じく安西系の馬璘が節度使となり連年続く吐蕃の侵攻に対する防戦に努めたが、
形勢は極めて不利であった。
・大暦三年[768年]邠寧単独では吐蕃の侵攻を防ぐには力が足りず、馬璘は原節度使を分鎭して移動し、
強力な朔方・河中軍を率いる郭子儀が邠寧慶の三州を管轄して防衛の責任に当たることになった。
邠寧の旧安西軍は貧寒の地である原に移ることは不満で軍乱を起こしたが鎮圧された。
郭子儀は河中に本拠を置き、吐蕃侵攻時には邠州や奉天に進出するという形を取った。