・李克用の率いる沙陀騎兵軍は強くまともに対抗できる勢力はなかったが、河東の兵力は
小さく経済力も低かった。また克用は酒乱であり、経世的な能力はなく、幕僚には恵まれ
なかったため地域的な戦闘では勝利を収めながら、戦略的には押され続けるという状況であった。
・景福元年[892年]克用は義武王處存とともに成徳王鎔・幽州李威を堯山に大破した。
・景福二年[893年]成徳王鎔を再び破ったが、幽州李威の救援があり退いた。
・乾寧元年[894年]3月叛した邢州李存孝を誅し、12月幽州李籌を滅ぼし、
劉仁恭を留後として統治させた。
・乾寧二年昭宗皇帝の依頼により邠寧王行瑜・鳳翔李茂貞を伐ち、行瑜を誅した。
河東・昭義・幽州・河中・義武・成徳が麾下に入り、天平・泰寧も通じ克用の勢力はこの
時期最大となった。
・その後乾寧4年[897年]幽州劉仁恭が裏切って自立し、成徳が朱全忠に付くなど勢力
は衰えていった。
・光化元年[898年]李罕之が裏切って潞州を取り朱全忠についた。光化二年[899年]
これを奪還し孟遷に与えたが、天復元年遷は裏切り全忠についた。しかも女婿河中王珂
が油断を突かれて包囲され全忠に降った。
・天復元年[901年]全忠は鳳翔を攻囲したが、克用はこの背後をつくことが出来なかった。
・天祐三年[906年]全忠將丁會が潞州をもって降ってきたが、全忠の勢力に押されたまま
唐末を迎えることになった。
小さく経済力も低かった。また克用は酒乱であり、経世的な能力はなく、幕僚には恵まれ
なかったため地域的な戦闘では勝利を収めながら、戦略的には押され続けるという状況であった。
・景福元年[892年]克用は義武王處存とともに成徳王鎔・幽州李威を堯山に大破した。
・景福二年[893年]成徳王鎔を再び破ったが、幽州李威の救援があり退いた。
・乾寧元年[894年]3月叛した邢州李存孝を誅し、12月幽州李籌を滅ぼし、
劉仁恭を留後として統治させた。
・乾寧二年昭宗皇帝の依頼により邠寧王行瑜・鳳翔李茂貞を伐ち、行瑜を誅した。
河東・昭義・幽州・河中・義武・成徳が麾下に入り、天平・泰寧も通じ克用の勢力はこの
時期最大となった。
・その後乾寧4年[897年]幽州劉仁恭が裏切って自立し、成徳が朱全忠に付くなど勢力
は衰えていった。
・光化元年[898年]李罕之が裏切って潞州を取り朱全忠についた。光化二年[899年]
これを奪還し孟遷に与えたが、天復元年遷は裏切り全忠についた。しかも女婿河中王珂
が油断を突かれて包囲され全忠に降った。
・天復元年[901年]全忠は鳳翔を攻囲したが、克用はこの背後をつくことが出来なかった。
・天祐三年[906年]全忠將丁會が潞州をもって降ってきたが、全忠の勢力に押されたまま
唐末を迎えることになった。