・任迪簡のあとは元和8年[813年]渾瑊の子鎬が嗣いだ。鎬は成徳王承宗征討に参加したが、
元和11年[816年]功を焦って大敗し軍乱を招いた。
・唐朝はあわてて張茂昭の甥易州刺史陳楚を節度使とし鎮定させた。
・陳楚は自立することなく長慶元年[821年]幽州朱克融の乱などにも戦果をあげ、柳公濟に交代した。
・公濟は太和年間横海李同捷に出動した。
・義武軍は河北の争乱があるたびに動員され、しかし領州は貧しく唐朝からの支援がなければやってい
けない立場でもあるため牙軍には不満が募っていた。
・公濟が太和三年[829年]卒すると、將張璠は自立した。横海征討に疲弊し、成徳王廷湊・魏博何進滔
と反唐朝藩鎭が盤踞している状況では追認するしかなかった。
・開成3年[838年]璠が卒すると子元を立てようとする動きがあった。しかし唐朝からの援助がなけ
ればやっていけない状況から最終的には神策軍出身の陳君賞が入った。
・開成5年[840年]にも軍乱が起こり君賞は逐われたが、君賞は豪傑數百人を集めて再び入城し乱を鎮定した。
これ以降軍情は落ち着いていった。
元和11年[816年]功を焦って大敗し軍乱を招いた。
・唐朝はあわてて張茂昭の甥易州刺史陳楚を節度使とし鎮定させた。
・陳楚は自立することなく長慶元年[821年]幽州朱克融の乱などにも戦果をあげ、柳公濟に交代した。
・公濟は太和年間横海李同捷に出動した。
・義武軍は河北の争乱があるたびに動員され、しかし領州は貧しく唐朝からの支援がなければやってい
けない立場でもあるため牙軍には不満が募っていた。
・公濟が太和三年[829年]卒すると、將張璠は自立した。横海征討に疲弊し、成徳王廷湊・魏博何進滔
と反唐朝藩鎭が盤踞している状況では追認するしかなかった。
・開成3年[838年]璠が卒すると子元を立てようとする動きがあった。しかし唐朝からの援助がなけ
ればやっていけない状況から最終的には神策軍出身の陳君賞が入った。
・開成5年[840年]にも軍乱が起こり君賞は逐われたが、君賞は豪傑數百人を集めて再び入城し乱を鎮定した。
これ以降軍情は落ち着いていった。