唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

河東節度使 その3

2012-01-23 10:50:03 | Weblog
・郭子儀が絳州の乱を鎮定すると、河東の軍乱の黒幕である辛雲京(自立して節度使となっていた)はたちまち
鎮圧者側に寝返った。史朝義征討のため唐朝はそれを認めざるえなかった。
・廣徳元年[763年]副元帥僕固懷恩がようやく河北を平定するが、雲京は宦官勢力とつながり懷恩追い落としに動いた。
・廣徳二年[764年]雲京は使相となり大暦三年[768年]卒するまで唐朝に恭順であった。
・雲京の没後宰相王縉が河東軍を慰撫し一応安定した。
・河東は地理的に河北の軍乱には必ず関与する位置にあるため唐朝は人選に苦慮したが大暦年間は人をえることができなかった。
・大暦10年[775年]の田承嗣の反乱には節度使薛兼訓はたいした働かず、13年[778年]回紇の侵入には節度留後鮑防は敗北し、
14年の馬燧の就任まで低迷していた。
・建中2年[781年]魏博田悦・成徳李惟岳の乱に対して、馬燧は昭義李抱眞とともに活躍し、臨洺で田悦軍を大破した。
・建中3年[782年]には洹水で再び田悦を大破したが、幽州朱滔が叛し、賊の連合軍に連愜山では敗北した。
・燧は興元元年[784年]には副元帥となり河中李懷光の征討にあたり、貞元元年[785年]これを誅した。
・貞元3年[787年]吐蕃主戦派の鳳翔李晟を失脚させ、和約を図ったが、水の會盟で吐蕃が裏切ったためならなかった。
燧はそのため河東節度使を解任され名目的な宰相(司徒)に祭り上げられた。後任は部下の李自良であった。