・至徳元年[757年]12月安史の乱、唐朝の財源である淮南・浙江を防禦するために楊州に設置された。
楊楚滁和壽廬舒光蘄黄安申沔の十三州を領有するが治安維持を目的として文官の高適が節度使となった。
・上元元年[760年]無能で定見のない肅宗皇帝は河南の宋州付近に盤踞していた平盧軍出身の劉展を
淮南に移すという失策を犯した。しかも淮南節度使景山や都統李峘などには、展を排除する命令を下していた。
・赴任を拒まれて激怒した展はたちまち淮南・浙西・宣歙を制圧し、景山など文官出身の節度使は逃げ散った。
・そこで肅宗皇帝は展の兄貴分にあたる田神功を南下させて討伐させることにした。富裕な地の掠奪を期待して
神功は勇躍して侵攻し、たちまち展を敗死させた。このため安史の乱にあわなかった淮南は荒廃した。
・上元二年[761年]乱が治まると元宰相の崔圓が赴任して潰滅した統治機構の再建が行われた。
楊楚滁和壽廬舒光蘄黄安申沔の十三州を領有するが治安維持を目的として文官の高適が節度使となった。
・上元元年[760年]無能で定見のない肅宗皇帝は河南の宋州付近に盤踞していた平盧軍出身の劉展を
淮南に移すという失策を犯した。しかも淮南節度使景山や都統李峘などには、展を排除する命令を下していた。
・赴任を拒まれて激怒した展はたちまち淮南・浙西・宣歙を制圧し、景山など文官出身の節度使は逃げ散った。
・そこで肅宗皇帝は展の兄貴分にあたる田神功を南下させて討伐させることにした。富裕な地の掠奪を期待して
神功は勇躍して侵攻し、たちまち展を敗死させた。このため安史の乱にあわなかった淮南は荒廃した。
・上元二年[761年]乱が治まると元宰相の崔圓が赴任して潰滅した統治機構の再建が行われた。