唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

淮南西道節度使 その3

2012-01-03 09:25:55 | Weblog
・最初、李希烈は唐朝に従い勢力拡大を図った。淮西軍は驢馬を騎兵代わりに使い、地味だが強兵であった。
・建中2年[781年]山東梁崇義が叛すると、希烈は諸軍都統として乱入し、たちまちに崇義を潰滅させた。
・しかし希望していた山東併領は認められず、使相になる程度の恩賞に不満をつのらせた。
・建中3年[782年]同根[同じ平盧軍出身]の淄青(李納)討伐を命じられたが従わず、河南・東都併呑
を狙い、11月叛した。
・建中4年[783年]汝州を陥し河南全域を荒し東都に迫った。淮南浙江からの貢納が遮断された唐朝は舒王
を元帥として關内・江南の諸軍を討伐に向かわせようとしたが、原軍が叛し朱を擁立したためかえって
京師を棄てなければならず征討軍は消滅した。
・興元元年[784年]汴州・滑州を取り、都統李勉を奔らせた。大赦令にも応ぜず「大楚」皇帝を名乗った。
・しかし11月降將李澄が唐朝に歸順し、陳州で將翟崇暉が大敗したため、希烈は汴州を棄てて蔡州に戻った。
・貞元1年[785年]州を陥すが、隋州李思登が唐朝に帰順し形勢は不利となってきた。
・貞元2年[786年]4月情勢の不利を感じた將陳仙奇は希烈を毒殺し唐朝に帰順した。
仙奇は淮西節度使に任じられた。
・7月希烈の愛將呉少誠は仙奇を殺し自立した。戦乱に疲弊した唐朝はそれを認めるしかなかった。
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