・中和元年[881年]黄巣に従った忠武軍節度使周岌は監軍[宦官]楊復光と共謀して唐朝に復帰した。
その時に属州の蔡州では將秦宗權が蜂起して唐朝に復帰し奉國軍防禦使に任ぜられた。
・中和二年[882年]昇格して奉國軍節度使となった。
・中和三年[883年]京師を失ったが依然強大な黄巣軍に攻められた宗權は降った。
・中和四年[884年]以降、黄巣と協力して四隣を侵略した。
・黄巣敗死後、その勢力を受け継いだ宗權は皇帝を称し、山東・河南・淮南を制圧し陳州[趙雙]汴州
[朱全忠]を攻撃した。
・文徳元年[888年]朱全忠に大敗した宗權は蔡州に逃げ帰ったが、將申叢が叛し、全忠に引き渡された。
・その後奉國軍は朱全忠配下にあったが、黄巣軍の裏切り者である全忠に対する反感をもつものも多く
光化二年[899年]には節度使崔洪以下が淮南楊行密のもとに奔った。その後は全忠將朱友裕の管轄となった。
その時に属州の蔡州では將秦宗權が蜂起して唐朝に復帰し奉國軍防禦使に任ぜられた。
・中和二年[882年]昇格して奉國軍節度使となった。
・中和三年[883年]京師を失ったが依然強大な黄巣軍に攻められた宗權は降った。
・中和四年[884年]以降、黄巣と協力して四隣を侵略した。
・黄巣敗死後、その勢力を受け継いだ宗權は皇帝を称し、山東・河南・淮南を制圧し陳州[趙雙]汴州
[朱全忠]を攻撃した。
・文徳元年[888年]朱全忠に大敗した宗權は蔡州に逃げ帰ったが、將申叢が叛し、全忠に引き渡された。
・その後奉國軍は朱全忠配下にあったが、黄巣軍の裏切り者である全忠に対する反感をもつものも多く
光化二年[899年]には節度使崔洪以下が淮南楊行密のもとに奔った。その後は全忠將朱友裕の管轄となった。