・張茂昭は父よりも唐朝に忠誠であり永貞元年[805年]元和元年[806年]と入朝し使相に任ぜられた。
・元和4年[809年]成徳王承宗征討にたいして河東軍とともに木刀溝で破るなど一応の働きはした。
・茂昭は幽州・成徳に挟まれた自鎭の危うさを危惧し、憲宗皇帝による対藩鎭積極策をみて、、
張家の存続を意図し、易定二州を唐朝に引き渡すことを決意した。当然河北の諸鎭はこれを止めよう
としたがきかなかった。当時成徳王承宗は帰服したばかりで、幽州劉濟は唐朝寄りであったので
強硬策を採る隣鎭はなかった。
・元和5年[810年]茂昭は兼中書令河中節度使に栄転し、一族は諸衛将軍等に任ぜられた。
後任には唐朝より派遣された行軍司馬任迪簡が任ぜられることになった。
・しかし10月將楊伯玉が叛し迪簡を執え、さらに將張佐元が伯玉を殺すという事態が起こった。
牙軍幹部はこれを鎭定し再び迪簡を推したてた。
・ところが義武軍の官庫は空[もともと貧しい上に、茂昭が持ち出したため]で、將士に与えるべき
賞賜がなかった。迪簡は憂慮して將士とともに粗食をとり、粗舎に起居した。
やがて唐朝より賞賜が到着して正式に節度使となった。
・元和4年[809年]成徳王承宗征討にたいして河東軍とともに木刀溝で破るなど一応の働きはした。
・茂昭は幽州・成徳に挟まれた自鎭の危うさを危惧し、憲宗皇帝による対藩鎭積極策をみて、、
張家の存続を意図し、易定二州を唐朝に引き渡すことを決意した。当然河北の諸鎭はこれを止めよう
としたがきかなかった。当時成徳王承宗は帰服したばかりで、幽州劉濟は唐朝寄りであったので
強硬策を採る隣鎭はなかった。
・元和5年[810年]茂昭は兼中書令河中節度使に栄転し、一族は諸衛将軍等に任ぜられた。
後任には唐朝より派遣された行軍司馬任迪簡が任ぜられることになった。
・しかし10月將楊伯玉が叛し迪簡を執え、さらに將張佐元が伯玉を殺すという事態が起こった。
牙軍幹部はこれを鎭定し再び迪簡を推したてた。
・ところが義武軍の官庫は空[もともと貧しい上に、茂昭が持ち出したため]で、將士に与えるべき
賞賜がなかった。迪簡は憂慮して將士とともに粗食をとり、粗舎に起居した。
やがて唐朝より賞賜が到着して正式に節度使となった。