・節度使となった王行瑜は増長し、鳳翔李茂貞・華州韓建と結んで唐朝を威嚇し
尚書令など高位を要求した。
・景福二年[893年]三者は京師に乱入し、宰相杜譲能を殺すなど横暴を極めた。
・乾寧二年[895年]7月河東李克用等は行瑜等の非を糾弾し、京師に侵攻してきた。
行瑜軍はたちまちに敗走し、茂貞・建は急遽謝罪した。
・11月敗走した行瑜は殺されて、一時期邠寧は唐朝に回復された。
・乾寧四年[897年]頃、鳳翔李茂貞は邠寧を勢力下に収めて、李繼徽(茂貞の仮子)
を節度使とした。
・天復元年[901年]朱全忠の鳳翔攻囲に際して、繼徽は敗北し全忠に降り、
楊崇本と本名にもどった。
・天祐元年[904年]全忠に妻(人質となっていた)を寝取られたことに怒った崇本は、
茂貞配下に戻り、三年[906年]京師を攻撃したが敗北した。
・その後も邠寧は茂貞勢力下であった。
尚書令など高位を要求した。
・景福二年[893年]三者は京師に乱入し、宰相杜譲能を殺すなど横暴を極めた。
・乾寧二年[895年]7月河東李克用等は行瑜等の非を糾弾し、京師に侵攻してきた。
行瑜軍はたちまちに敗走し、茂貞・建は急遽謝罪した。
・11月敗走した行瑜は殺されて、一時期邠寧は唐朝に回復された。
・乾寧四年[897年]頃、鳳翔李茂貞は邠寧を勢力下に収めて、李繼徽(茂貞の仮子)
を節度使とした。
・天復元年[901年]朱全忠の鳳翔攻囲に際して、繼徽は敗北し全忠に降り、
楊崇本と本名にもどった。
・天祐元年[904年]全忠に妻(人質となっていた)を寝取られたことに怒った崇本は、
茂貞配下に戻り、三年[906年]京師を攻撃したが敗北した。
・その後も邠寧は茂貞勢力下であった。