・長慶三年[823年]司空裴度が赴任して以降、山西は元宰相や宰相候補の赴任地となった。
王涯・李絳・李宗閔・李裕・李固言・令狐楚があげられる。
・裴度は政敵李逢吉の策謀により、その地位にも拘わらず平章事が付帯されないという事件があった。
・太和四年[830年]山西では始めての軍乱がおき節度使李絳が殺された。これは前年の
西川杜元穎の失政による南詔の侵攻対策として募集した軍を監軍が無計画に解散しよ
うとしたためである。山西には強力な軍備はなく牙軍も弱体であった。
・會昌以降は高級文官の赴任地に格下げとなっていった。
・中和三年[883年]忠武軍を率いて半ば流賊となった鹿晏弘が節度使牛勗を逐って占拠したが
翌年には棄てて流れていった。
・光啓二年[886年]邠寧朱玫らに京師を逐われた僖宗皇帝[宦官田令孜が擁立]が山西に逃避してきた。
田令孜は失脚し、宦官楊復恭が実権をにぎった。
・光啓三年[887年]京師は回復されたが僖宗皇帝は戻れず鳳翔に移り、復恭配下の楊守亮が節度使となり、
付近の領州を分割して武定軍(洋州)や感義軍(鳳州)や龍劒(龍州)などの小鎭が形成された。
王涯・李絳・李宗閔・李裕・李固言・令狐楚があげられる。
・裴度は政敵李逢吉の策謀により、その地位にも拘わらず平章事が付帯されないという事件があった。
・太和四年[830年]山西では始めての軍乱がおき節度使李絳が殺された。これは前年の
西川杜元穎の失政による南詔の侵攻対策として募集した軍を監軍が無計画に解散しよ
うとしたためである。山西には強力な軍備はなく牙軍も弱体であった。
・會昌以降は高級文官の赴任地に格下げとなっていった。
・中和三年[883年]忠武軍を率いて半ば流賊となった鹿晏弘が節度使牛勗を逐って占拠したが
翌年には棄てて流れていった。
・光啓二年[886年]邠寧朱玫らに京師を逐われた僖宗皇帝[宦官田令孜が擁立]が山西に逃避してきた。
田令孜は失脚し、宦官楊復恭が実権をにぎった。
・光啓三年[887年]京師は回復されたが僖宗皇帝は戻れず鳳翔に移り、復恭配下の楊守亮が節度使となり、
付近の領州を分割して武定軍(洋州)や感義軍(鳳州)や龍劒(龍州)などの小鎭が形成された。