・建中三年[782年]賈耽のあと嚴震が後を嗣いだ。翌年建中四年原軍が叛し京師を陥し
朱が皇帝と称した。宗皇帝は奉天城に包囲されたが李懷光の来援により解放された。
しかし李懷光もまた叛した
・興元元年[784年]二月宗皇帝は梁州に避難し、さらに安史の乱のように成都へ落ちようとした。
嚴震はこれを引き留め梁州を興元府として關内の李晟の京師回復作戦を後援した。
・嚴震は山西の貧寒の地を収斂し、西川張延賞の支援も得て朝廷の経費を賄い、その功績は大きかった。
・嚴震は貞元15年[799年]に卒し、一族の嚴礪が嗣いだ。
・嚴礪は元和元年[806年]西川の劉闢討伐に従い、平定と共に東川節度使へ移動した。
・その後は武官系が数代続き、その後高位の文官が赴任する藩鎭となっていった。
趙宗儒-鄭餘慶-權輿-崔従などである。
朱が皇帝と称した。宗皇帝は奉天城に包囲されたが李懷光の来援により解放された。
しかし李懷光もまた叛した
・興元元年[784年]二月宗皇帝は梁州に避難し、さらに安史の乱のように成都へ落ちようとした。
嚴震はこれを引き留め梁州を興元府として關内の李晟の京師回復作戦を後援した。
・嚴震は山西の貧寒の地を収斂し、西川張延賞の支援も得て朝廷の経費を賄い、その功績は大きかった。
・嚴震は貞元15年[799年]に卒し、一族の嚴礪が嗣いだ。
・嚴礪は元和元年[806年]西川の劉闢討伐に従い、平定と共に東川節度使へ移動した。
・その後は武官系が数代続き、その後高位の文官が赴任する藩鎭となっていった。
趙宗儒-鄭餘慶-權輿-崔従などである。