唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

山南西道節度使 その1

2012-01-09 21:50:59 | Weblog
・至徳元年[756年]玄宗皇帝が安禄山の乱で成都へ逃れる時、途中の梁州に山南西道防禦観察使を置いた。
漢中王瑀が初代防禦使である。その後文官が赴任したが、上元二年[761年]党項羌が入寇しも時の観察使
李勉は州を棄てて奔った。その後武官系が赴任し廣徳元年[763年]節度使となった。
・領州は梁洋集壁文通巴興鳳利開渠蓬と十三州もあるが、いずれも山間の貧しい州であり警備中心の小規模な藩鎭であった。
・廣徳二年[764年]史朝義将張獻誠が汴州を以って降った。唐朝は汴州が重要拠点であるので平盧系の
田神功に与え、獻誠を山西節度使に移した。
・大暦元年[766年]崔寧が西川で自立し、副元帥杜鴻漸は獻誠を先鋒としてこれを伐たしたが梓州で敗北したため、
慰撫して帰順させる方針に変えた。
・大暦三年[768年]獻誠は入朝したが後任は從父弟獻恭に嗣がせた。
・獻恭の統治は吐蕃の侵攻[主要侵攻路ではない]に備えて大暦14年[779年]まで続いたが貧寒の地であるので強力
な軍は成立せず。その後はスムーズに文官賈耽が引き継いだ。

義武軍[易定]節度使 その4

2012-01-09 09:37:45 | Weblog
・その後神策軍系の武将の赴任先となり安定した時期が続いた。
・乾符6年[879年]豪商の息子で神策軍系の王處存が赴任した。直後の廣明元年[880年]黃巢が京師を陥し、
處存はいち早く軍を率いて勇戦し功績をあげた。
・中和二年[882年]處存は沙陀の李克用(この後河東節度使となる)と姻戚となり同盟を結んだ。
それに対して幽州李可擧など河北諸鎭勢力は警戒を強めた。
・光啓元年[887年]幽州李可舉・成徳王鎔は義武軍を併呑しようとて易州に侵攻したがかえって
處存に逆襲されて大敗した。そのため幽州は軍乱がおき李可擧は自殺した。
・景福元年[892年]處存は克用とともに成徳王鎔・幽州李威を攻め大破した。
・乾寧二年[895年]處存は卒し、子の郜が嗣いだ。
・光化三年[900年]朱全忠は北進し、成徳王鎔を服属させ、幽州劉仁恭軍を大破して義武に迫った。
處存の弟處直が率いる義武軍も沙河で大敗し、郜は河東へ奔り、處直は全忠に降った。
全忠は處直を義武軍節度使として服属させた。