・至徳元年[756年]玄宗皇帝が安禄山の乱で成都へ逃れる時、途中の梁州に山南西道防禦観察使を置いた。
漢中王瑀が初代防禦使である。その後文官が赴任したが、上元二年[761年]党項羌が入寇しも時の観察使
李勉は州を棄てて奔った。その後武官系が赴任し廣徳元年[763年]節度使となった。
・領州は梁洋集壁文通巴興鳳利開渠蓬と十三州もあるが、いずれも山間の貧しい州であり警備中心の小規模な藩鎭であった。
・廣徳二年[764年]史朝義将張獻誠が汴州を以って降った。唐朝は汴州が重要拠点であるので平盧系の
田神功に与え、獻誠を山西節度使に移した。
・大暦元年[766年]崔寧が西川で自立し、副元帥杜鴻漸は獻誠を先鋒としてこれを伐たしたが梓州で敗北したため、
慰撫して帰順させる方針に変えた。
・大暦三年[768年]獻誠は入朝したが後任は從父弟獻恭に嗣がせた。
・獻恭の統治は吐蕃の侵攻[主要侵攻路ではない]に備えて大暦14年[779年]まで続いたが貧寒の地であるので強力
な軍は成立せず。その後はスムーズに文官賈耽が引き継いだ。
漢中王瑀が初代防禦使である。その後文官が赴任したが、上元二年[761年]党項羌が入寇しも時の観察使
李勉は州を棄てて奔った。その後武官系が赴任し廣徳元年[763年]節度使となった。
・領州は梁洋集壁文通巴興鳳利開渠蓬と十三州もあるが、いずれも山間の貧しい州であり警備中心の小規模な藩鎭であった。
・廣徳二年[764年]史朝義将張獻誠が汴州を以って降った。唐朝は汴州が重要拠点であるので平盧系の
田神功に与え、獻誠を山西節度使に移した。
・大暦元年[766年]崔寧が西川で自立し、副元帥杜鴻漸は獻誠を先鋒としてこれを伐たしたが梓州で敗北したため、
慰撫して帰順させる方針に変えた。
・大暦三年[768年]獻誠は入朝したが後任は從父弟獻恭に嗣がせた。
・獻恭の統治は吐蕃の侵攻[主要侵攻路ではない]に備えて大暦14年[779年]まで続いたが貧寒の地であるので強力
な軍は成立せず。その後はスムーズに文官賈耽が引き継いだ。