唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

成徳節度使 その3

2012-01-29 12:20:43 | Weblog
・元和4年[809年]憲宗皇帝は王承宗の成徳継承を認める代わりに、徳棣二州を保信軍節度使として
承宗一族の薛昌朝に与えるという妥協案を出した。しかし承宗は分割案を認めず昌朝を捕らえて叛した。
・憲宗皇帝は宦官吐突承璀を招討使として追討したが、承璀には將才がなく、昭義節度使盧従史は成徳
魏博に内通し、他の諸鎭も戦意なく敗戦が続いた。
・元和5年[810年]承璀はやむなく、内通していた昭義盧従史を捕殺して、これに責任を押しつけて
戻った。承宗は六州を維持することに成功したが、憲宗皇帝は深くこれを憎んだ。
・元和7年[812年]魏博で田弘正が立ち親唐朝体勢をとり、幽州劉總も唐朝に通じた。そのため河北
で孤立した承宗は淄青李師道と連携して警戒を強めた。
・元和10年[815年]承宗・師道は対藩鎭強硬派の宰相武元衡を京師で暗殺した。憲宗皇帝は激怒し
後任に主戦派の裴度を起用し、河東・幽州・河陽・昭義・魏博・幽州・義武などに討伐を命じた。
・しかし淮西呉元濟征討と並立し、淄青李師道の支援を得た承宗は善戦し、かえって義武渾鎬(かんの子)
を破るなど成果はあがらなかった。
・元和12年[817年]淮西呉元濟征討に全力を尽くすため、成徳招討は停止された。
・元和12年[817年]末元濟が誅されると、承宗は懼れて魏博田弘正をたよって憲宗皇帝に謝罪した。
・元和13年[818年]4月弘正の懇願をうけて、徳棣二州を献じ、実子二人を人質に送り、麾下の諸州
の官吏を唐朝の任命にするという条件で赦された。
・これにより唐朝は残る淄青李師道討伐に専念することになった。
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