昨日のブログで「大旱ばつ」などと書いたが、これはロッキー山脈などで旱ばつとなり、日本では「空梅雨、猛暑」となるということであった。メモを読み返したので訂正。
また、土曜日に嬉野町(現松阪市)の「戸井左近」の墓参りをしてきたが、この戸井氏の事件とは、中村川下流の旱ばつに苦しむ農民100人余が上流にあたる堰を崩してさかのぼり、8つ目の森本地区の堰を壊しにやってきたが、それを命に掛けて食い止めんと、農民を説得した若者武士の墓である。
農民が「それなら腹を切ってみよ、ならば崩さず引き下がる」と言うのをきいた24歳の戸井左近は川の大石の上で腹を切ったという。農民は大いに恥じ、その後旧暦6月23日の命日に毎年供養が行われている。1570年ごろの話。
戸井左近は大河内城戦で北畠方として立てこもり、北畠が織田方と和睦し、浪人状態だった。もともと地元城主の息子であり、活躍の場を探していたかもしれないが、この一件で地元に名を残した。
今も堰のそばに「戸井」とのみ彫られた石が残っている(写真)。
また、土曜日に嬉野町(現松阪市)の「戸井左近」の墓参りをしてきたが、この戸井氏の事件とは、中村川下流の旱ばつに苦しむ農民100人余が上流にあたる堰を崩してさかのぼり、8つ目の森本地区の堰を壊しにやってきたが、それを命に掛けて食い止めんと、農民を説得した若者武士の墓である。
農民が「それなら腹を切ってみよ、ならば崩さず引き下がる」と言うのをきいた24歳の戸井左近は川の大石の上で腹を切ったという。農民は大いに恥じ、その後旧暦6月23日の命日に毎年供養が行われている。1570年ごろの話。
戸井左近は大河内城戦で北畠方として立てこもり、北畠が織田方と和睦し、浪人状態だった。もともと地元城主の息子であり、活躍の場を探していたかもしれないが、この一件で地元に名を残した。
今も堰のそばに「戸井」とのみ彫られた石が残っている(写真)。