天気も良くないので、絵の作業と古文書解読。親父の残した段ボール箱には「古本」も何冊か入っていて色々珍本もあったのでご紹介。
歴史に興味がない人にはつまらないが、この手書きの本(写真)は見出しの表題が書かれている。
「朝鮮信使」とは江戸時代、徳川将軍の交替時期に朝鮮国王の使いとして「信(よしみ)」を遣わす使節団で4~500人が12回来ていた。「朝鮮通信使」と呼ばれている。この際に国内でも大変な準備と対応がされていた訳である。大阪からは陸路の行列で、三重県にも「唐人踊り」としてその有様が伝わる。(通信使はユネスコ、記憶の遺産に登録されている)
で、この文書は文化8年時(1811年)で、これが最後の通信使となった。また、本来、江戸であったが、この時はお互いの財政厳しき折、ということで対馬に会場を移して行われた。
この文書は48ページで4つの場面に応じた礼式が記載されている。接遇マニュアルのような内部文書。その最後に、対応人員一覧と将軍から朝鮮王に送られる品一覧(屏風9双)が記載されている。この写真は日本側対応人員欄の最初のページ(左側:「文化8未夏朝鮮信使に付対州下向」と題されている)。
8人の名前が記載されている。トップは上使 小倉藩藩主小笠原大膳(忠固)その下は差(介)添 脇阪(竜野藩主)、林大学、大目付井上、勘定奉行柳生、吟味役松山、同佐野肥後守、同遠山左衛門尉とある。「金さん」の遠山はこの時18歳独身で家督500石を継いでいないので、これは父親の方。この3年後4200石取り旗本の娘と結婚し、その後、北町、南町奉行となる。 (小倉藩も竜野藩も通信使の通過地点で経験豊富)
ここに書いてある8人に付く供の数を数えると2576人になる。随行者はまだまだいるので、これが対馬まで行ったのかいな?とも思うが。江戸を出た隊列は、六郷川過ぎれば5分の1ぐらいになったのでは、などと貧乏人は邪推する。
なぜ、こんな本が伝わっているのかを考えたが、随行者(供)の中には尾張藩士も手伝いに行っていて、このマニュアル本を使っていたが、維新後の窮乏の中で売りに出した品々に混ざっていて、我が先祖が手に入れたのではないかと想像している。
しかし読むのは難しい。コロナで古文書読解の講座が休止状態。開催されるようになったら参加しようと思っている。教えてもらえるのがなによりだ。