1週間ぶりのライド。こぎ出せば、すっかりなまってしまって、体が動かない。寒いせいもあるのだろうが、加齢とともに、さぼると後が大変なようだ。
本当は安楽越えを考えていたが、一昨日雪が降り、今朝の明け方も山は雪であっただろうと考え、南の方へ。少し暖かくなった9時過ぎに家を出る。コースは、中勢BP~久居戸木~大仰~二本木~榊原温泉~家所~あの津台。
久居へ向かう頃から、ようやく足が回るようになってきた。亀が広過ぎて、林業研究センター方面へ抜ける脇道を走って二本木の閑城集落へ。ここには江戸時代藤堂藩の代官所が置かれていた事を発見する。
二本木の旧名を「大村」といい、「大村閑城代官所跡」の小さな看板が立つ。敷地は今は民家となっている家の何軒分もあり、広かったようだ。
近くに「浦上キリシタン収容所跡」と書かれた看板がある(写真)。写真の建物は戦前?にたてられた大三教会跡のようだ。
家に帰ってから調べると、慶応3年(1863年)、長崎浦上キリシタンの4度目の大検挙があった。幕府は倒れたが、明治政府は切支丹禁制を続け(神道の国教化とリンク)、慶応4年(明治元年)6月、明治政府は中心人物114人を萩、津和野、福山の3藩に送り、改宗のため、水責め、石責めなどで拷問した。また、翌明治2年、検挙した計3394人を21藩へ流罪とし、津藤堂藩は155人を預かることとなった。そのうち75人が二本木の地に送られた、との事である。
明治政府が諸外国の抗議・反発を受け、切支丹禁制を解いたのは明治6年2月である。その直前に伊勢山田へ送られたキリシタンたちは、そこから、明治6年5月に浦上へ戻ることとなる。布教の中心人物でなかったこともあるのか、この地での処遇は緩やかであったようだ。(3394人の内662人が命を落とした)
昭和13年、賀川豊彦の命により、この地に伝道の場所が設けられたのも、このゆえんではないか、との事である。
初瀬街道の旧道沿いであり、これまで、サイクリングで、1,2度通過した所であるが、知らなかった。明治初期の宗教政策の勉強にもなったサイクリングだった。走行82㎞。これが今年の走り納め?かな。
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