そもそも論者の放言

ミもフタもない世間話とメモランダム

父の日

2006-06-20 19:18:17 | Diary
ワールドカップネタが続いたので、ちょっと他の話を。

先週の日曜は「父の日」だった。
我が家でも、うちの父親とヨメのお父さんにささやかな贈り物をした。
先月の「母の日」も同様。

が、ふと気づいた。

これまで、「母の日」「父の日」といえば、自分の両親のことばかり頭に浮かんでいたが、よく考えると今年からは我ら夫婦自身が「母」であり「父」であるのだ。
もちろんようやく寝返りが打てるようになったばかりの我が子に何を期待するわけでもなく、元気な笑顔を振りまいてくれることが何よりの「贈り物」なのだが、あと何年かすれば自分たちが感謝される対象として自然に意識するようになるのかと思うと、ちょっと不思議な気がした。

こんなことを「父の日」から2日も過ぎて初めて気づくほど、まだ自覚が無いのである・・・
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柳沢、宮本

2006-06-20 19:08:30 | Sports
クロアチア戦から二日が経過した。
ブラジル戦の視聴率を上げ、新聞を売り上げることしか頭に無いマスコミは、「まだあきらめるのは早い!」と脳天気な盛り上げキャンペーンを続けている一方、賢明なる日本国民は冷静になるにつれ、「なぜダメなのか」「どうしたらよくなるのか」を考えることに注力をし始めているように思える。
かく言う自分もそのうちの一人である。
もちろんあきらめたわけではないのだが。

リトバルスキーに「フェラーならギプスをつけてても入れる」と評された屈辱的なシュートミスを犯した柳沢。
ディフェンスとしては致命的なフィジカルの弱さを露呈し(幸い失点にはならなかったものの)PKを献上した宮本。
ネット上を眺めていても、この2人に対する風当たりは相当強い。
彼らに対する批判は今に始まったことではなく、過去においても同様の弱点を露見させていた上に、大切な本番の勝負どころであのような失態を見せたことによりバッシングが爆発している。
宮本については、そのビジュアルから各種メディアに英雄的に持ち上げられていることの反動、やっかみ半分という背景もあるだろう。
そして、そんな彼らを重用し続けた監督・ジーコの選手起用に対する憤りもここにきて再燃している感がある。

個人的に、団体スポーツにおける結果責任を特定の個人に負わせること、即ち「戦犯探し」はあまり好きじゃない。
第一に、安易に個人の責めに帰することで、解決すべき真の原因が隠されてしまうことがままあると考えるからである。
第二に、幾度かの失敗のみを取り上げることで当人のチームに対する貢献度(この言葉も好きじゃないが)を無に帰してしまうのはフェアでないと思うからである。

宮本は、確かにフィジカル面のみを考えると、いかにもひ弱だ。
Jリーグにおいても決して傑出した運動能力をもったディフェンダーではなく、ましてや世界の舞台においてはそのひ弱さは目立って見劣る。
それにもかかわらず、トルシエ、ジーコという全く哲学の異なる2人の指導者が、日本のディフェンスラインの中央に彼を起用したのは何故か?(注:トルシエのファーストチョイスは森岡だったが)
そこには選ばれるだけの理由があるはずである。
以前このブログでアントラーズの本田泰人によるコラムを紹介したことがある。
本田は、ジーコが宮本を起用する理由として、「ポジショニングやカバーリング能力、気が利く点」、そして「チームとして動ける選手であることが大きい」ことを指摘している。
素人目にはなかなかわかりにくいポイントであるが、当然そうした優れた能力が無ければ起用されるわけがないと思うのである。
柳沢についても、攻撃のスペースを作り出す動き出しの質の高さには定評があり、この点についてはインタビューにおいて中田英寿も非常に高く評価していた。

しかし、である。
そういった彼らの持っている高い能力を忘れてはならないと考える一方で、やはり今回彼らが犯してしまったミスは強烈な批判を逃れられないものだとも思う。
サッカーは得点を取り合う競技である。
フォワードの最大の仕事は点を取ることであり、ディフェンダーのそれは点を与えないこと。
ミスを全くしない選手は存在しないが、檜舞台で、その最大の「仕事場」で、致命的なミスを犯してしまった事実は重い。
その事実は彼らのキャリアにも大きな汚点となることも致しかたがないと思う。
図らずも彼らの個人としての限界、そして現時点での日本サッカー界の限界を示してしまったと言わざるを得ない。

もう一点。
上述のように、今回柳沢や宮本が批判を受けることについては、仕方のないことだと思う。
が、だからといって「巻を使ってたら・・・」とか「やっぱり久保を選んでいれば・・・」といった「たら・れば」議論を展開するのは建設的でない。
第一に、それが「無いものねだり」であるからである。
巻は使おうと思えば使えるが、今回のメンバーには久保も松井も田中達も平山も、闘莉王も松田も入っていないのは動かしようの無い事実である。
そんなことに空想を巡らせてもマスターベーションにしかならない。気持ちはわかるが。
第二に、所詮は仮定の話に過ぎないからである。
他の選手を使っていればうまくいっていた可能性はある。が、もっと酷い結果を招き「やっぱり柳沢だね」という結果になっていたかもしれない。
どこまでいっても仮定の域を超えられないのである。

こういった空想論が盛んに語られる背景として、ジーコが、あまりに実績主義・序列主義に傾倒し、新しい選手を試すことに慎重すぎたことにサポーター諸氏がストレスを感じ続けてきたという点はあるだろう。
その点について、ジーコはあまりに頑なであった、と自分も思う。
が、そこには世界的な現象として、ナショナルチームのチーム作りが著しく困難な環境になっている現状を考慮に入れる必要がある。
各国のリーグ戦、カップ戦、さらに大陸別のクラブ選手権も加わり、代表選手のスケジュールは過密を極めている。
代表選手が集まって練習・試合を行ないチームプレーを深める時間は限られる。
主力選手がヨーロッパのクラブに所属する日本の場合、さらに時差と移動時間の問題も抱える。
なるべく選手を固定して連携を高めようと志向するのも理解できる。
ジーコはいささか柔軟性を欠き過ぎだったとは思うが、この点については誰が次の代表監督になったとしても多かれ少なかれ状況は変わらないのではないかと思う。
コメント (2)
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