2001年9月11日の同時多発テロから10年。
今、NHKBSでやっている追悼式典中継番組を視ながらこれを書いています。
10年前のあの日、まだ独身で一人暮らしだった自分は、仕事から帰宅してつけたTVのニュースで見た、旅客機がWTCに突っ込み、ビルが崩壊する信じられない光景をまざまざと記憶しています。
2005年12月に出張でNYを訪れた際には、グラウンド・ゼロにも立ち寄りました(こちらの記事)。
そして今日は、奇しくも東日本大震災からちょうど半年の日にもあたりますね。
9.11にしても3.11にしても、その日を境に世の在り方は全く変わってしまった、という言い方がよくされます。
多くの高名な作家や評論家がそのように書いたり語ったりしているわけですが、そのような言い方を耳にする度に、自分は少し違和感を覚えます。
確かに、その日を境に変わってしまったことはたくさんあります。
でも、一方でその日を経ても変わらないこともある。
良いことも、悪いことも。
そうした「変わらないこと」のほうにこそ本質があるような気がしています。
野田新政権の鉢呂経産大臣が昨日辞任しました。
辞任の契機となった「失言」は確かに誉められたものではありませんが、少なからぬ人が云っているように辞めるほどのものか、という疑念は感じます。
政権側は鉢呂氏を守るそぶりも全く見せず、さっさとトカゲのシッポ切りしてしまいました。
野党や反対勢力とうまくやっていきたい新政権としては、ツッコミどころはとにかく一刻も早く埋めてしまいたい、ということなんでしょう。
こうやってまた本質を語ることが葬り去られていきます。
鉢呂大臣の「失言」のうち、「放射能つけちゃうぞ」についてはどうも事実関係が判然としないので論評しにくいのですが、「死のまち」については正直「言葉狩り」という印象です。
「福島は死のまち」⇒苦労している福島の人たちの感情を冒涜している⇒けしからん
「日本は戦争に負ける」⇒戦地で頑張っている兵隊さんに申し訳ない⇒けしからん
なんだか似てますね。