日経新聞朝刊の「やさしい経済学」で「国難に向き合った日本人」というシリーズが連載されています。
昨日まで中林真幸・東大准教授の稿により高橋是清が取り上げられていました。
その最終回から。
高橋是清による国債の日銀引き受け政策は、その後の軍事予算の爆発的増加を招いたと言われる一方、高橋自身は軍事予算膨張に反対の立場であった(それ故2・26事件の犠牲者となった)とよく語られます。
が、中林氏はその議論をあまり意味がない、としています。
当時、衆議院と貴族院は「ねじれ」状態となることが多く、貴族院は枢密院と並んで機動的な立法措置の妨げとなるケースが多かったとのこと。
貴族院と枢密院の制御を一つの目的とし、政友会は陸軍との接近を深めていった。1925年(大正14年)、高橋から政友会の総裁職を引き継いだのは田中義一陸軍大将であり、田中は翌26年に貴族院議員に、そして27年、金融恐慌収拾を期待されて首相に就き、高橋を蔵相に迎えた。世界恐慌期に機動的な「高橋財政」が可能だったのも政友会と陸軍との密接な関係ゆえであり、高橋個人の剛腕ゆえではない。
しかし、陸軍との接近という「政局」的曲芸は、帝国憲法が衆議院に期待する役割を掘り崩していった。<中略>…自由民権運動の正統的な後継者にして最大政党である政友会の代議士が、無駄の温床である陸軍の族議員となれば、衆議院の検査機能はおのずと低下する。
政友会が軟化した後、財政規律を守る最後の砦は日本銀行の独立性であり、それを奪ったのが「高橋財政」である。強すぎる貴族院と枢密院という帝国憲法のゆがみに対し、政友会は財政規律の維持という代議士の使命を放棄して応じ、日銀の独立さえも否定した。
高橋財政が軍拡を招いた、というよりも、既に軍拡に向かう素地ができていた中での必然としての高橋財政だった、ということでしょうか…