今日は二十四節気の「小暑」および五節句の一つ「七夕(しちせき)」です。
「小暑」とは、梅雨明けが近づき、暑さが本格的になってくる頃との意味ですが、「小暑」のことはさておき、今日は節句の「七夕(しちせき)」について調べて見ました。
「七夕(しちせき)を「たなばた」と読む謂れ」
七夕(しちせき)は、人日(じんじつ)の節句(1/7)、上巳(じょうし)の節句(3/3)、端午の節句(5/5)、そして重陽(ちょうよう)の節句(9/9)とともに五節句の一つです。
節句の「節」とは、中国の暦法で定められた季節の変わり目のことです。
暦の中で奇数(陽)が重なると陰になるとして、それを避けるために避邪の行事が行われた中国の暦法と日本の農耕人の風習が合わさり、定められた日に宮中で邪気を祓う宴会が催されるようになったことから「節句」と言われるようになったそうです。
「たなばた」は古くは棚機(たなばた)や棚幡(たなばた)と表記したようです。
これが「七夕」と書いて「たなばた」と発音するようになったのは、元々「七夕(しちせき)」はお盆行事の一環であり、精霊棚とその幡を安置するのが7日の夕方であることから、7日の夕で「七夕」と書いて「たなばた」と発音するようになったと言われています。
「七夕まつり」
「七夕まつり」は、天の川の両岸にある牽牛星と織女星が1年に1度再会すると言う7月7日の夜に星を祭る年中行事で、中国伝来の乞巧奠(きこうでん)の風習と日本の「棚機津女(たなばたつめ)」信仰、即ち、「棚機津女(たなばたつめ)」という巫女が水辺で神衣(かむみそ)という衣を織りながら、神の降臨を待つという信仰とが習合したものと言われています。
江戸時代に民間に広まり、庭前に供物をし、葉竹を立てて、五色の短冊に歌や字を書いて飾りつけ、書道や裁縫の上達を祈りました。
(参考)
「乞巧奠(きこうでん)」とは、中国の風習で、女子が手芸に巧みになる事を祈る祭事です。
7月7日の夜、供え物をして牽牛・織女星を祭る行事で、日本には奈良時代に伝わり、宮中の儀式として始まりました。
「七夕伝説」
こと座の1等星ベガは、中国や日本では織姫星として知られています。
織姫は天帝の娘で、機織の上手な働き者の娘でした。わし座の夏彦星(牽牛星・アルタイル)もまた働き者でした。娘の結婚相手を探していた天帝は二人を引き合わせ、めでたく結婚しました。
しかし、結婚してからは二人は夫婦生活が楽しく、織姫は機を織らなくなり、夏彦もまた牛を追わなくなりました。
このため天帝は怒り、二人を天の川を隔てて引き離しました。しかし、悲しみに明け暮れる二人を不憫に思った天帝は仕事に励むことを条件に、年に一度(7月7日)だけ会うことを許しました。
7月7日(七夕)になると天帝の命を受けた鵲(かささぎ)が天の川に橋を架け、二人は年に1度だけ会うことが出来るようになったということです。
・七夕伝説の発祥地、枚方市の「かささぎ橋」のモニュメントです。
の
しかし、当日雨が降ると天の川の水かさが増し、織姫は渡ることが出来ず夏彦も会うことが出来ませんでした。
この日に降る雨は催涙雨といわれ、織姫と夏彦が流す涙と言われています。
七夕には「星あい(星合い)」という別名がありますが、これは星の逢引であることからそのように言われているそうです。