らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

「お化け屋敷」の由来

2012-08-17 | 雑学

今月7日に立秋を迎え、暦の上では秋になりましたが、実際の季節は今が夏真っ盛り。
昨日の大阪の気温は35度近くまで上昇する猛暑となりましたが、この暑さの中、各地の納涼イベント会場では「お化け屋敷」が人気を博しているようです。
そこで今日は「お化け屋敷」の由来について調べました。

「由来」
興行としてお化け屋敷が始まったのは、天災や飢饉など社会不安が頻発した天保元年(1830)だそうです。
東大森に住んでいた瓢仙という医者が、自宅の庭に小屋をつくって、壁から天井まで一面に百鬼夜行の様を極彩色に描き、それに一ツ目小僧などの化け物細工の人形を飾り付けたのが始まりで、これが評判となって、「大森の化け物茶屋」といわれ、江戸からも多くの見物人が集まったそうです。
しかし、悪趣味に過ぎるとの理由で代官にとがめられ、3カ月ほどで撤去されてしまったと言われています。

その後、天保9年(1839)、両国回向院で井ノ頭弁財天の開帳時、境内の見世物の中に、泉 目吉の人形細工「変死人形競(へんしにんくらべ)」があって、土左衛門や獄門のさらし首をはじめ、髪の毛で木の枝に吊るした女性の生首などがリアルに再現されました。
他にも棺桶に入った亡霊がその破れ目から首を出したところに月の光が射したり、木に縛りつけられた裸男のノドに短刀が突き通され両眼をむき出したさま等が人気を呼んだようですが、これが現在のお化け屋敷の原形と云われています。

「歴史」
明治時代の博覧会ではお化け屋敷は余り登場しなかったようですが、大正時代に入り、お化け屋敷を特設することが流行しました。
大正3年、大阪・千日前の楽天地で「納涼博覧会」が開かれ、この時もお化け屋敷の興行が併催され人気を呼んだそうです。
お化け屋敷は後に「お化け大会」ともいわれるようになって、納涼イベントとして定着し、百貨店の催しとしても開かれるようになりました。

戦後のお化け屋敷は、百貨店や遊園地の催事として登場しますが、戦前のリアルな表現は少しずつ姿を消しました。
現在では 映像や音響、からくり、役者などを駆使し、利用者に対し幽霊や怪物に対する恐怖を疑似体験させ、楽しませる事を目的とする施設が多いようです。