らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

白虎隊自刃の日

2012-08-23 | 雑学

慶応4年(1868年)1月、幕府軍の軍艦2隻が兵庫沖に碇泊していた薩摩藩の軍艦を砲撃したことから始まった戊辰戦争は、薩長連合による新政府軍と旧幕府軍が鳥羽伏見の戦いから本格的な戦闘状態になりました。

その後、戦火は全国に広がり、江戸城の無血開城を経て、戦闘は宇都宮から東北へ、そして北海道の函館戦争で榎本武揚らが新政府軍に降伏して、1869年(明治2年)5月18日に戊辰戦争が終わりました。

この前年の8月22日~9月22日まで、会津藩が降伏するまでの1ヶ月間、東北戦争が行われ、白虎隊の悲劇が生まれました。
即ち、144年前の1868年(明治元年)8月23日、会津戦争で会津藩の白虎隊が城下の飯盛山で自刃したものです。

・鶴ケ城から見た飯盛山です。 手前の色の濃い小山が飯盛山です。(平成8年10月に撮影)


会津藩では軍を年齢により白虎(17歳以下)・朱雀(18歳~35歳)・青龍(36~49歳)・玄武(50歳以上)の4つの班に分けており、最年少の白虎隊は15歳から17歳までの少年で編成されていました。
会津藩等の奥羽越列藩同盟が官軍と戦闘状態に入ると白虎隊も実戦に参加し、越後戦争や会津戦争で死闘を繰り広げていました。

そして1868年(明治元年)のこの日、飯盛山にいた白虎隊の士中二番隊員が、城下の町に火の手が上がったのを会津城が落城したものと思い、20人の隊員全員が自刃したものです。

・飯盛山からの見た鶴ケ城の眺めです。(中央ポールの向こうにお城が見えます)(平成8年10月撮影)
 白虎隊の少年たちはここからお城が炎上しているのを見て「もはやこれまで」と思い自刃しました。
 しかし、その時点では、まだお城は炎上しておらず、武家屋敷の炎上をお城と勘違いしての自刃だったそうです。


・「白虎隊」自刃の地です。(平成8年10月撮影)
 白虎隊(15歳~17歳)の少年たち20名はここで自刃しました。


・白虎隊士 「飯沼貞吉」氏です。(平成8年10月撮影)
 20名の白虎隊士の一人でしたが、唯一、一命を取りとめた人です。 この飯沼貞吉氏によって白虎隊の悲劇が後世に伝えられました。


・自刃した白虎隊十九士の墓です。 ここを訪れる人たちによって、今でも線香の煙が絶えません。(平成8年10月撮影)


会津藩 九代藩主 松平容保(まつだいらかたもり)公は戊辰戦争で自刃した白虎隊士の殉難忠節に対し次の弔歌を詠まれました。

  「幾人の 涙は石に そそぐとも その名は世々に 朽じとぞ思う」  (源 容保)