らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

天王寺公園(その2)茶臼山

2013-10-07 | 地元紹介

今日は天王寺公園の中にある「茶臼山古戦場跡」をご紹介します。

「茶臼山と河底池」
四天王寺の南西に立つ茶臼山は、一説には、5世紀ごろの全長200m近い前方後円形古墳であると言われています。
大阪市内では最大級の前方後円墳で、5世紀にこの地の豪族のために作られた墓のようですが、被葬者は不明とのことです。
しかし、昭和61年(1986年)の発掘調査結果によると、古墳に欠かせない葺(ふ)き石や埴輪(はにわ)が全く見つからなかったそうです。

一方、少数派ですが、別の説として、平安京を建設した桓武天皇に仕えた和気清麻呂( 733-799 )が788年に上町台地を東西にまたぐ運河を造り、その時、運河を掘った土を盛り上げて出来たのが茶臼山だという説もあるようです。

「河底池」
茶臼山の手前、公園本体との間には河底池(かわぞこいけ)がありますが、これは延暦7年(788年)に和気清麻呂がが、大和川や河内湖の排水と水運のために上町台地をここで開削しようとして失敗した跡地とも言われています。
なお、河底池は1928年(昭和3年)に公園に編入されています。

・標高26メートル茶臼山と手前がは河底池です。


「茶臼山古戦場跡」
ここの掲げられている説明は下記の通りです。


茶臼山古戦場跡」
茶臼山は大坂冬の陣では徳川家康の陣場になり、大坂夏の陣においては真田幸村が陣した場所です。

大坂夏の陣では、元和元年(1615)五月七日朝、真田幸村は茶臼山に布陣しました。
幸村の作戦は東に控える真田大助や毛利勝永、大野治長、明石全登らとともに敵を待ち構え、敵の正面から真田隊が突撃し、混乱させたところで背後から明石隊が挟撃するというものでした。
しかし、明石隊が配置につく前に城方の兵が勝手に鉄砲を撃ってしまい、期待していた秀頼の出陣もなく、真田隊は劣勢に陥りました。
幸村は死期を察し、嫡男・大助を秀頼の最後を見届けさせるために城に戻した後、幸村を先頭に、それぞれ念仏を唱えながら、死に物狂いで突撃して行ったと言われています。

・茶臼山に立てられている「大坂夏の陣」の絵図です。


「茶臼山山頂への登り石段」
茶臼山は前記したように慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では徳川家康が、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では真田幸村が陣を敷き、戦の舞台となったところですが、明治以降は住友家邸宅の敷地の一部となっていました。
1925年(大正14年)に住友家から邸宅敷地(現・大阪市立美術館)、慶沢園とともに大阪市に寄付されて天王寺公園の一部となりました。

・「大坂の陣」の幟が立てられている茶臼山古戦場跡です。


・「史蹟 茶臼山 及 河底池」の石碑です。


「茶臼山の山頂」
上記画像の石段を登ると標高26mの茶臼山山頂に至ります。