らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

堺市内散策(その1)てくてくろーど

2013-10-22 | 地元紹介

先日、雨が降る中、堺市内を散策してきました。
これは、来月に予定されている「熊野古道を歩く」ための足慣らしを兼ねた散策で、同好会のメンバー6名と歩いたものです。
当日は「堺まつり」も催されていたのでその模様も含めて、今日から数回に分けてご紹介します。

「てくてくろーど」
堺市内中心部では『てくてくろーど』と名付けて、要所要所の路面に案内板を設置し、進行方向を示す工夫がなされていました。
堺市の駅や公園などの観光案内所で発行している「堺めぐりMAP」を貰い、「てくてくろーど」の標識に従って歩くと、容易に目的地に到達できます。

 ・「てくてくろーど」の道標です。この道標が曲がり角や施設の前に造られています。


「旧鉄砲鍛冶屋敷町跡」
ここに掲げられている説明によれば、
『この辺りは第2次世界大戦の戦災を免れたため、江戸後期を偲ばせる古い街並みが残されています。
この井上邸は、堺にただ一つ現存する当時の鉄砲鍛冶屋敷で、現在は4棟の切妻造り平入りの建物からなり、建物の総間口は12間半にわたっています。
最初は表口3間半で店の間を全部土間とし、奥の方の左半分を土間、右手を6畳と4畳半の2室を設けた簡単なものでしたが、その後、北に座敷を継ぎ足し、更に南の家を次々と入手して鍛冶場を広げ、大座敷を設けたものと考えられています。
江戸初期から末期にわたる鉄砲鍛冶の生活の実態を知る上で貴重な建物となっています。』

・鉄砲鍛冶の井上邸ですが、現在は非公開となっています。
 

「浄得寺」
この浄得寺は天平年間(740年頃)、行基により建立され、通称は海船御堂と呼ばれています。
この海船御堂の名は、海船の浜(現在の北旅籠町西)にあったことからそのように呼ばれているそうです。
浄得寺は南北朝の争乱の時期に焼失し、1431年(永享3年)本願寺第6世門主巧如の孫、了圓により真宗寺院となりました。
1598年(慶長3年)に現在地に移転し、真宗大谷派(東本願寺を本山とする)の寺院として存在しています。



なお、浄得寺は敕願寺であるため、屋根瓦には菊の御紋が、寺を囲む塀には5本線が施されており、寺院としての格の高さを物語っています。

・菊の御門が入った浄得寺の屋根瓦です。


「月蔵寺」
創建は明応4年(1495年)で、当時は京都本山頂妙寺の末寺として、本光坊と称したと伝えられています。
その約50年後の天文2年(1543年)に堂宇を建立して、妙国寺の中本寺として青陽山 月蔵寺に改称したそうです。
開創以来120年を経た慶長20年(1615年)4月28日、大坂夏の陣の余波を受け、豊臣方家臣の放った火により焦土と化しました。
その後18世紀中頃までに本堂・妙見堂・庫裏などが相次いで再建されて寺観が整備され、後年の修復再建を経て現在に至り、平成21年(2009年)に開創以来515年を迎えたそうです。



「月蔵寺山門」
現在の山門は、本柱の後方に控柱2本を建てて切妻屋根にかけた医薬門で、大型のものに属し、第26世心王院日元の代、嘉永3年(1850年)に当時の御殿医であった廣岡氏・巴氏の寄進で再建された、江戸末期を代表する遺構とされています。

・月蔵寺の山門です。