らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

堺市内散策(その4)妙国寺

2013-10-25 | 地元紹介

堺市の「てくてくろーど」散策、4回目の今日は「妙国寺」をご紹介します。

妙国寺(みょうこくじ)は堺市の中央部にある日蓮宗の寺院です。
1562年(永禄6年)に戦国武将・三好義賢(実休)が日(にっこう)上人に命じて開いたとされます。



妙国寺は、日蓮宗の代表的な寺院として、商人や来堺した戦国武将たちの信奉を受けて栄華を極めましたが、大阪夏の陣で「徳川家康妙國寺に有り」と聞きつけた豊臣兵により火を放たれ、灰燼に化しました。
江戸期に再建されてからも再び1945年(昭和20年)の堺大空襲により消失しましたが、昭和48年に三たび再建されています。

・本堂です


「徳川家康の歌碑」
徳川家康は本能寺の変が起こった時、妙国寺に泊っていましたが、日上人の機転で三河に逃げ帰ることができました。
家康がこの地から伊賀越えをして岡崎に帰った話は有名ですが、大坂夏の陣の際にも妙國寺に宿泊していたと伝えられております。
当寺には家康の歌碑が建てられています。
 「妙なりや 國にさかゆる そてつぎの ききしにまさる 一もとのかぶ」

・徳川家康の歌碑です。(ネットより)


妙国寺は千利休寄贈の六地蔵灯篭や瓢箪型手水鉢がある日本唯一の「蘇鉄の枯山水」庭園として、更に、堺事件の土佐藩士切腹の地でも有名です。

(参考)
堺事件とは、慶応4年(1868年)2月15日、当時は外国に対して開港となっていなかったにもかかわらず、フランス軍艦の水兵100名が堺に上陸し、市内を闊歩し、婦女子を追い回すなどの傍若無人の振舞いに、堺警備隊の土佐藩士が応対し、互いに言葉も通じず、両者銃撃応酬の末、フランス兵13名の死傷者を出すに至りました。
本事件は国際問題となり、フランス側に賠償金の支払いと関係者の切腹を求められ、妙國寺境内において11名が自刃したものです。



「蘇鉄」
戦国時代、遠い南の国から運ばれてきたという妙國寺のソテツは当時大変珍しがられ、天下統一を果たした織田信長も羨望の的だったそうで、その権力をもって安土城へ移植させてしまいました。
ところが、そのソテツは毎夜、毎夜、「堺へ帰ろう、妙国寺へ帰ろう」とすすり泣くのだそうです。
激怒した信長が部下に命じてソテツを切らせたところ、切り口から鮮血が流れ、、大蛇のごとく悶絶しました。
さすがの信長も気味が悪くなり、当寺に返還されたとされています。
痛めつけられたソテツは今にも枯れそうになりましたが、日上人が読経したところ回復しました。
ここから「蘇鉄」という名がついたと言われています。

・境内にある樹齢1,100年の大蘇鉄は国指定の天然記念物となっています。(ネットより)