らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

北浜

2013-10-11 | 地元紹介

今回の大阪市内行きは、大阪在住の高校時代のクラスメートと旧交を温めるためで、集合場所の北浜まで、難波から御堂筋、本町、淀屋橋を経由して徒歩で行きました。
集合場所の北浜の「K]という飲食店は土佐堀川河畔にあって大阪市中心部の眺望が素晴らしく、且つ、当日の大阪は日中の最高気温が32度と季節が1カ月逆戻りしたような暑い1日であったことから、土佐堀川から吹き抜ける風が涼しくて、大変心地よいものでした。

「北浜の地名の由来」
北浜の地名の由来を調べたところ2説あるようです。
一つは、船場の北の大川に沿った浜と言う意味からと、もう一つは大川前の店が全て北に向いていたことからその名がついたと言うものですが、前者の説が有力のようです。

・飲食店「K]からの西側の眺望です。左から大阪市役所と「大阪中央公会堂(旧中之島公会堂)(レンガ造りのドーム型の屋根)」です。


「難波橋」
こちらは飲食店「K]から東側の眺望です。
見える橋は難波橋(なにわばし)です。この橋は浪速の名橋50選に選定されている橋で、大阪弁では「なんにゃばし」と発音します。
北浜から西天満の堺筋に架かり、全長は189.7m、幅21.8mの橋で、中之島を挟んで土佐堀川と堂島川の2つの川を渡ります。



「大阪中央公会堂(旧中之島公会堂)」
大阪市中央公会堂(旧中之島公会堂)は、1911年(明治44年)、株式仲買人である岩本栄之助が公会堂建設費として当時の100万円を寄付したことにより、1911年8月に財団法人公会堂建設事務所が設立され、建設計画が始まりました。
北浜の風雲児と呼ばれた相場師・岩本栄之助は渋沢栄一が団長となった1909年(明治42年)の渡米実業団に参加し、アメリカ大都市の公共施設の立派さや富豪たちによる慈善事業・寄付の習慣に強い印象を受けたそうです。
彼は父の遺産と私財をあわせた100万円を公共施設建設に寄付することを決め、蔵屋敷の廃止後衰退し再生を模索していた中之島に公会堂を建設することにしました。
公会堂は1913年(大正2年)6月に着工し、1918年(大正7年)にオープンしましたが、岩本栄之助は第一次大戦による相場の変動で大きな損失を出したことから、公会堂の完成を見ないまま1916年(大正5年)に自殺したそうです。

・大阪市中央公会堂(旧中之島公会堂)(右)とその左隣は大阪市役所です。


・ライトアップした大阪市中央公会堂(旧中之島公会堂)が綺麗だったので撮影しましたが、夜間撮影の心得がないことからお粗末な画像になりました。


大阪市中央公会堂(旧中之島公会堂)のライトアップはこのように綺麗でした。(ウィキペディアより)。