日本の国民食と言われているものには、お寿司、味噌汁、うどん、そば、カレーライスなどがありますが、今や庶民に愛され、“国民食”と言ってもいいほどになっている食べ物にラーメンがあります。
日本のラーメンは、現在では発祥地である中国に逆上陸して人気を博していると言うことですが、そのラーメンを日本で初めて食べたのは水戸黄門こと徳川光圀だそうです。
そこで今日は水戸黄門(徳川光圀)とラーメンの関わりを調べてみました。
水戸黄門こと徳川光圀は、1628年(寛永5年)、水戸藩初代藩主徳川頼房公の三男として側室お久の方から生まれ、幼名を長丸と言いました。
頼房公は大勢の男の子の中から三男の長丸を世継ぎとして決めました。父頼房公の目には狂いはなく、長丸は文武に秀でて情が深く、人の上に立つ力量を備えていました。
世継ぎになってから名を千代松と改めます。7歳の時、江戸城に登り、当時の将軍家光公に拝謁しました。
1636年(寛永13年)9歳の時、江戸城で将軍家光公立合いの下に元服し、家光公の「光」の一文字を戴いて「光国」と名乗るようになりました。
一般に知られる「光圀」という字は、彼が56才の時から用いるようになったものです。
1665年(寛文5年)、儒学に熱心だった光圀は、長崎に亡命していた明国の儒学者・朱舜水(しゅしゅんすい)を水戸藩へ招きました。
朱舜水は多方面にわたり尽力し、光圀が自らうどんを打つほどの無類の麺好きであったことを知り、水戸藩へ招いてくれたお礼に中国の麺を作り、献上しました。
これが日本で初めて作られたラーメンと言われており、これを食べた光圀が日本で初めてラーメンを食べた人物だそうです。
しかし、このラーメンは現在のものとはかなり様子が違っていたようです。
例えば、麺は小麦粉だけではなく「藕粉(オウフェン)」というレンコンのデンプンを混ぜて造られたものでした。
また、だしには中国ハムやその他の乾物類が使われ、別皿にショウガ、ニンニク、ニラ、ネギ、ラッキョウ、山椒などが盛られていたそうです。
とは言うものの、光圀はこのラーメンが大変気に入り、1697年(元禄10年)6月16日、光圀は朱舜水から伝授された麺を自ら作って家臣に振舞っていたとの記録が残っているそうです。
しかし、当時のラーメンについての詳しい製法の記録がないので、復元するのは困難のようですが、はたしてどんな味だったのでしょうね。