昨日、現役時代のOBが集まるカラオケ同好会に参加してきました。
この同好会は泉大津市の北助松駅前にあるカラオケ・コーヒー店が休みの日に、半日借り切って3ヶ月に1回例会を開いているものです。
以前から参加を呼びかけられていたものの、その都度理由をつけて断っていたので、一度くらいは顔を出しておこうと思い参加してきました。
昨日は10名が参加して、最近の歌やナツメロなど、自慢ののどを披露していました。
ナツメロしか知らない私は、昔好きだった曲「柿の木坂の家」ほか4曲を数年振りに歌ってきました。
「柿の木坂の家」は、石本美由紀が作詩し、船村徹が作曲した作品で、昭和32年(1957年)9月15日 に日本コロムビア から発売されて空前の大ヒット曲となりました。
この曲の伴奏と歌詞がとても気に入っているので、昔はよく歌ったものでした。
「柿の木坂の家」
♪ 春には 柿の花が咲き
秋には 柿の実が熟れる
柿の木坂は 駅まで三里
思い出すなァ ふる里のョ
乗合バスの 悲しい別れ
今日は、この歌の本家本元である青木光一が歌う「柿の木坂の家」をお聴きいただき、故郷を思い出していただければ・・・と思います。
・春に咲いた柿の花です
・秋に熟れた柿の実です。
青木光一が歌う「柿の木坂の家」です。
回転寿司
今年、小学校1年生の孫は回転寿司が好きで、連れていくととても喜びます。
でも、孫が食べるのはいくらとサーモンだけで、同じものを何皿も食べています。
その回転寿司ですが、今ではすっかりお馴染みとなっており、日本全国は勿論、世界にも広がっているようです。
今日は日本の食文化の一つ、回転ずしの起源について調べてみました。
回転寿司のルーツは、昭和33年(1958年)4月に大阪府布施市(現東大阪市)にオープンした元禄産業(株)の「廻る元禄寿司」です。
元禄産業(株)の創設者であり、回転寿司の生みの親である、故・白石義明(元会長)がビール工場の製造に使われているベルトコンベアにヒントを得て開発した「旋回式食事台」が回転寿司の始まりのようです。
関西を中心に知名度を上げていた元禄寿司ですが、その名が全国に知られる大きなきっかけが昭和45年(1970年)の「大阪万博」でした。
元禄寿司は万博会場の西側入り口に出店していたようですが、システムの物珍しさから、日本人だけでなく外国人からも注目を集めたそうです。
この時、出店していたのはマクドナルドやミスタードーナツなどの有名外食企業でしたが、その中でも、元禄寿司は「電気自動車」や「動く歩道」などの近未来的な展示物と同様、未来を予感させる存在として一躍脚光を浴びたのだそうです。
万博後は元禄寿司に、マスコミや事業者などから問い合わせが殺到したと言われています。
回転ずし業界は、2000年代になると、郊外型で100円寿司を売りにした「大手100円均一回転寿司」と、一皿数百円以上の寿司を提供する「グルメ回転寿司」の二極化が進みます。
「100円寿司」はターゲットをファミリー層にして、ボックス席を増やし、子どもが楽しめるような仕掛けを多数作って業績を伸ばしていきました。
一方、「グルメ回転寿司」では、寿司の質を追い求めるようになり、食材はもちろん内装や装飾品、BGMにもこだわり、高級感を演出して、回転寿司ながら、大間(青森県)のマグロ一貫を1500円で提供する店もあったそうです。
2008年のリーマンショック以降、回転寿司業界では大手100円寿司チェーンの台頭が目立つようになりました。
特に、「あきんどスシロー」、「かっぱ寿司(現在は元気寿司の傘下に)」、「くら寿司」の勢いは凄まじく、2010年度決算で、売上での市場シェアは三社だけで55%を占めていたようです。
最近でも、平成26年3月期の売上高(シェア)は、カッパ・クリエイト933億円(26.6%)、くらコーポレーション881億円(25.1%)、アトム450億円(12.8%)で、上位3社の売上高は2264億円で64.5%のシェアを占めています。
しかし、昨年頃から100円寿司の勢いは衰え気味だとも言われているようです。
この傾向は、アベノミクス効果で日本経済がデフレから脱却し、消費者の意識が低価格路線から転換しつつあると言うことなのでしょうか?
今年もクールビズのシーズンとなりました。
環境省が「クールビズ」の名称でキャンペーンを始めて今年で10年目になります。
当初6~9月までの期間でしたが、東日本大震災で節電意識が高まり、2011年からは5~10月までに期間が拡大されました。
「室温28度でも快適に過ごしてもらうためのライフスタイル」として始まったクールビズは、今では認知率が9割を超え、かなり浸透してきたそうです。
さて、すっかりクールビズが定着したことで、街行く人たちのワイシャツ姿が目立ってきました。
ところで、このワイシャツと言う名称、実は関西地方ではカッターシャツと言います。
そこで今日はカッターシャツの由来を調べました。
ワイシャツは明治初期にできたことばで、もとの英語は「White shirt(ホワイトシャツ)」です。
当時、これが「ワイシャツ」と聞こえたようで、そのまま「ワイシャツ」と呼ばれるようになったと言うことです。
ワイシャツについて広辞苑では、ホワイト-シャツの転。主に男性が背広の下に着るシャツの総称。普通、前あき・ボタン留で、襟、カフス付きの袖が付く。と説明しています。
英語の「shirt」は下着の意味なので、White shirt(ホワイトシャツ)は、もとは単に「白い下着」という言葉なのだそうです。
日本でのワイシャツの始まりは、明治5年に宮中の礼服が定められた際、燕尾服の下に着始めたものとされています。
このワイシャツのことを西日本では「カッターシャツ」とも呼びます。
カッターシャツという言葉が出来たのは大正時代で、大阪に本社があるスポーツ用品店のミズノが売り出した『スポーツシャツ』の商品名でした。
大正7年(1918年)にミズノが発売したテニスやハイキングなどのアウトドア用に開発したシャツは襟と袖が付いているものでした。
これは欧州発祥のスポーツが格式を重んじて襟付きシャツでプレーするのがマナーである点に着目し、新たなジャンルとして売り出したものです。
この商品名をどのような名称にしようかと思案していた創業者の水野利八氏は野球が好きで、球場によく足を運んでいたそうです。
そこで「勝った」「勝った」とひいきチームの勝利を喜ぶ観客を見て「カッター(勝った)シャツ」を思いつき、「試合に勝つ」という願いを込めて「カッターシャツ」と名付けたのだそうです。
元々の形は襟の大きい開襟シャツで、当時人気の高まっていた野球観戦に、このシャツを着て行く人が多かったようで、この商品名が人気を呼んだため、西日本では襟付きのシャツのことを一般にカッターシャツと呼ぶようになったということです。
この襟付きシャツの格式張ったイメージがフォーマルな場で着るシャツと重なって、次第にビジネスの場で着るシャツもカッターシャツと呼ぶようになったのではないかと言われています。
今年のNHK大河ドラマ「花燃ゆ」は依然として視聴率が低迷しているようです。
某芸能レポートによれば、10話までの平均は13・76%、4月12日(2015年)放送の第15話ではとうとう10%を割って9・8%に落ちたそうです。
これは大河ドラマで最低視聴率12・01%となった「平清盛」(2012年)をさらに下回る超低空飛行だそうで、「このままいくと最低の更新だけでなく、全話平均視聴率で1ケタ台という記録的な大コケになりかねない」という見方も出ているそうです。
伊勢谷友介、東出昌大、高良健吾、大沢たかおといったイケメン俳優を並べてはいるものの、タイトルの「燃ゆ」のようには燃え上がらず、ドラマのセリフではないですが、「せわぁない(心配ない)」とのんびりしている場合ではないようです。
それでも私は、ドラマの舞台が山口県とあって、セリフの中に中国地方の方言が登場していることから、私が育った岡山県の方言と共通する言葉が時折出ており、懐かしさも手伝って毎週観ています。
その中の一つが吉田松陰と主人公の杉文の母親・滝さんを演じる檀ふみが喋る「せわぁない」という言葉です。
今日はその「せわぁない」という方言をご紹介します。
岡山ではこの言葉を「せわーねぇー 」と喋り、その意味は「大丈夫だ。」「心配ない。 」で、山口県と同じです。
使用例としては『それぐれぇーの怪我じゃあ、せわーねぇーわー(それくらいの怪我なら、大丈夫だよ)』のように使われます。
「せわぁない」は標準語では「世話がない」で、広辞苑で調べると、①手数がかからない。②あきれてどうしようもない。「皮肉なのにほめられたと思っていればー」と説明しています。
①の「手数がかからない」の意味が中国地方では「大丈夫だ。」「心配ない。 」に変化して「せわぁない」になったのではないかと思われます。
この「世話ない」という言葉は、古い言葉のようで、明治時代に書かれた江戸出身の夏目漱石の「吾輩は猫である」にもでてきていることから、昔は一般に使われていたのかも知れませんが、現在では「世話ない」という表現を余り聞くことがなく、岡山などの西日本の一部で未だ普通に使われているだけのようです。
しかし、岡山では「世話ねえ」と発音されており、山口弁でも多分「せわーねぇー(世話ねえ)」ではないかと思います。
ドラマでは檀ふみさんが「せわぁない(世話ない)」と分かりやすくしゃべっているのを聞くと、地元人には少し違和感があるかも知れませんね。
今年はトルコと日本の友情の礎となったエルトゥールル号遭難から125年目にあたります。
先日、これに合わせて、和歌山県串本町では「エルトゥールル号遭難」125周年記念事業が行われたことが報道されていました。
今日はこの遭難事故について調べました。
エルトゥールル号遭難事故は、1890年(明治23年)9月に和歌山県串本町沖でトルコ軍艦「エルトゥールル号」が沈没し、587人が亡くなった事故で、その概略は次の通りです。
「エルトゥールル号遭難事故の概略」
オスマン帝国(現在トルコ)の木造フリゲート艦エルトゥールル号は、日本の皇族小松宮夫妻のイスタンブール訪問に応えるためと、両国の友好関係の発展と相互理解を期待して派遣された艦船で、1889年(明治22年)7月、イスタンブールから11ケ月をかけ、1890年(明治23年)6月に日本に到着しました。
一行は皇帝親書を明治天皇に奉呈し、オスマン帝国最初の親善訪日使節団として歓迎を受けました。
そして3ヶ月余後の1890年(明治23年)9月16日夜半、帰路に着いたエルトゥールル号は折からの台風による強風にあおられ、和歌山県串本沖、大島の樫野崎に連なる岩礁に激突しました。
座礁したエルトゥールル号は機関部が浸水して水蒸気爆発を起こして沈没、司令官オスマン・パシャを始めとする乗組員587名が死亡または行方不明となる大惨事となりました。
このとき、樫野崎灯台下に流れ着いた生存者は、十数メートルの断崖を這い上って灯台守に遭難を知らせました。
灯台守から通報を受けた大島村(現串本町)樫野の住民たちは総出で救助と生存者の介抱にあたりました。
漁業で生計をたてている村人たちは貧しい生活をしており、台風で出漁できず、食料の蓄えも僅かでしたが、それにもかかわらず、住民は浴衣などの衣類、卵やサツマイモ、それに非常用のニワトリにいたるまで供給するなどして、献身的に生存者たちの回復に努めました。
この結果、収容された69名が救出され生還することが出来ました。
遭難の翌朝、事件は樫野の区長から大島町長に伝えられ、町長は神戸港の外国領事館に救助を求めて生存者を神戸の病院に搬送させるよう手配すると共に、県を通じて日本政府に通報しました。
知らせを聞いた明治天皇はこの遭難に大いに心を痛め、政府として可能な限りの援助を行うよう指示したと伝えられています。
こうして遭難者に対する支援が政府をあげて行われ、10月5日に品川港から出航した日本海軍の「比叡」「金剛」2隻により、生存者たちは翌1891年(明治24年)1月2日にオスマン帝国の首都イスタンブールに送り届けられました。
エルトゥールル号遭難事故はオスマン帝国に大きな衝撃を呼びましたが、新聞を通じて大島島民による救助活動や日本政府の尽力が伝えられ、当時のトルコの人々は、遠い異国の日本と日本人に対して好印象を抱いたといわれています。
今年12月にはエルトゥールル号遭難事故と両国の友好の歩みを題材にした両国合作映画「海難1890」(東映配給)が内野聖陽主演、ヒロインには忽那汐里、他にケナン・エジェ、小澤征悦、宅間孝行などのキャストで全国公開される予定です。
どうぞご期待ください。
今回の「紀州街道を歩く」シリーズは今日が最終回となります。
紀州街道は泉佐野から「孝子越(きょうしごえ)街道」と「熊野街道」に分かれていることから、私たちが歩いているのは海岸沿いの道である「孝子越(きょうしごえ)街道」と言うことになります。
その街道沿いに立地している「田尻歴史館」を後にして、私たちは昼食をとるために海岸に行くことにし、再度、りんくうタウンの新しい道「りんくう大通り」に出ました。
「りんくう大通り」
りんくう大通りは片側二車線の道路で、大阪府道29号大阪臨海線と一体となって、国道26号と平行し、大阪市と泉南地域を結ぶ道路です。
・りんくうタウンのあたらしい道路「りんくう大通り」です。
「マーブルビーチ」
泉佐野市から田尻町そして泉南市までの関西国際空港の対岸が埋め立てられて、その一部は「りんくう公園」になっています。
マーブルビーチはその名の通り、900mの海岸に白大理石が埋め尽くされた美しい海岸です。
この海岸からは、関空から飛行機が飛び立つところが見えるなど、素晴らしい景観が楽しめます。
海上に架けられている橋は関西国際空港連絡橋で、泉佐野市のりんくうタウンと関西国際空港島を結ぶ、橋長3,750mの世界最長のトラス橋です。
関西国際空港島の唯一の陸上アクセスを担い、「スカイゲートブリッジR」の愛称が付けられています。
「スカイゲートブリッジR」の「R」は、「Road」、「Railway」、「Rinku」の頭文字を表し、「Rainbow(虹)」、「Relationship(関係)」、「Remember(記憶)」などにも通じるということです。
・白い大理石が敷き詰められたビーチからは関西空港や美しい夕景などの眺望ができます。
マーブルビーチは美しい夕景が楽しめ、日本の「夕日百選」に選ばれている海岸です。
また、この海岸は大阪府で初めて「恋人の聖地」としての認定をうけたデートスポットです。
若い人はもちろん、熟年カップルのみなさんも二人だけの記念日や、クリスマス、バレンタインデーなど大切な日には、是非、訪れてみてください。
そして、時間とともに姿をかえる自然の美しさを楽しん頂きたいと思います。
・沖に見えるのは海岸から5㎞の海上に造られた関西国際空港です。
「関西国際空港」
関西国際空港は大阪湾内泉州沖5 kmの人工島に作られた海上空港で、平成6年(1994年)9月4日に開港しました。
すべてが人工島からなる海上空港であることと、旅客・航空貨物の両方の24時間運用の2点は、いずれも日本初となるものです。
田尻町の「田尻海洋交流センター」から本来歩くべき道である孝子越(きょうしごえ)街道に戻りました。
田尻町(大阪府)は2006年3月27日には日本一面積の小さい町でしたが、関空対岸の埋立てによる面積の増加でその地位を失い、現在は同じく大阪府の忠岡町が日本一面積の小さい町となっています。
その小さな田尻の町に大阪府指定有形文化財に指定されている「田尻歴史館」があります。
「田尻歴史館」
「田尻歴史館」は、明治から大正にかけて「綿の王」と呼ばれ、関西繊維業界の中枢を担った谷口房蔵の別邸として建てられた館です。
ここに記されている当館の沿革によれば、
この建物は大正12年に大阪合同紡績㈱の元社長である谷口房蔵氏の別邸として建築されたものです。谷口氏は文久元年(1861年)田尻に生まれ、明治、大正時代を通じて関西繊維業界の中枢を担った人物であり、生れ故郷である田尻に紡績という産業を興し、それによって田尻は飛躍的な発展を遂げました。
時代が変わり、昭和19年に大阪機工㈱の所有となり、その後、昭和43年に辻野常彦氏が買い受けされ、永年に亘り建物の保存につとめられ、田尻町の歴史の継承と文化の向上に深いご理解とご協力を頂き、平成5年に田尻町が取得、「愛らんどハウス」と名付けました。・・・田尻町
となっています。
敷地内には洋館、和館、土蔵、茶室が配置されており、いずれも建築学的に注目される近代建築のひとつだそうです。
一階のメインホールは、カフェレストランとなっており、食事やデザートなどが楽しめます。
また庭園・茶室および各室は、音楽会・展示会・各種教室等の会場としても使用できるようです。
・2階から眺めた庭と茶室です。
この建物は大正11年に建てられたそうで、当時としても最高級の素材が至る所に使われ、質へのこだわりと独自のスタイルを編み出そうとした作り手のセンスがうかがえるということです。
・2階の和室です。
・同じく2階の和室です。
田尻町は海が近いため塩分を多く含んだ風雨に強いチーク材が、当時のビルマ(現ミャンマー)から取り寄せられ、窓枠をはじめ多くの場所でふんだんに用いられていると言うことです。
・2回の洋室です。
先日、現役時代の趣味の会である「歴史探訪同好会」のメンバー10名と紀州街道を歩いてきました。
このシリーズは堺市から和歌山までの街道を歩いているもので、2~3ヶ月に1回実施しています。
前回(3月)の時には南海電鉄泉佐野駅まできていることから、今回は同駅に集合して、南海電鉄尾崎駅(阪南市)までの12㎞~13㎞を歩くものです。
今日から数回に分けてご紹介します。
紀州街道は泉佐野市鶴原から「孝子越(きょうしごえ)街道」と「熊野街道」に分かれます。
「孝子越街道」は海岸線に沿うように尾崎から深日(ふけ:岬町)、孝子峠を越えて和歌山城下へと続く街道であり、もう一方の「熊野街道」は海岸線から離れて、信達(泉南市)から 山中(阪南市) - 雄ノ山峠 - 山口(和歌山市)を通って 和歌山城下へと続く街道です。
私たちが歩いたのは「孝子越街道」に沿って関西空港の対岸に出来た、りんくうタウンの新しい道です。
・集合場所の南海電鉄泉佐野駅です。
泉佐野から関空対岸のりんくうタウンを南へ暫く歩くと、自動車と電車の高架橋の下を潜り抜けます。
奥に見える高層ビルは高さ256.1mの「りんくうゲートタワービル」です。
2015年現在、あべのハルカスの300m、横浜ランドマークタワーの296.3m、NTTドコモ代々木ビルの272mに次いで日本で4番目の高さとなっています。
・右の高架橋は南海電鉄の関空線、中央は関西空港自動車道、そして、左下隅に見えている高架橋はJR西日本の関空線です。
「孝子越(きょうしごえ)街道」は泉佐野で紀州街道から分岐して孝子峠(きょうしとうげ)を越えて和歌山へと至る街道です。
泉南の古い町並みをつないで南下する現在の旧国道26号線とほぼ重なるルートですが、新しい道を歩いたので名所旧跡には全く縁がありませんでした。
・泉佐野市羽倉崎辺りの関空対岸のりんくうタウンの道路です。
泉佐野市を過ぎて、田尻町までやって来ると、田尻漁港の傍に「田尻海洋交流センター」があり、その横で「朝市」が開かれていました。
「田尻海洋交流センター」
「田尻海洋交流センター」では、刺し網漁とカゴ漁、2種類の漁法を体験することができ、セミコースでは獲れた魚は持ち帰ることもできるようです。
また、フルコースでは、港に戻ってから獲った魚をバーベキューで楽しむことができます。
更に、ここの漁業体験の魅力の一つが関空沿岸のクルージングです。
海上から空港を眺めるだけでなく、タイミングが合えば離発着する飛行機の大迫力を間近で見ることができます。
「日曜朝市」
「田尻海洋交流センター」の横では、日曜日の午前中、朝市が開かれています。
この市では、大阪湾でとれた魚介類を売っているものですが、他にも地元で織られている泉州タオルや野菜、花、果物、天ぷら等その場で食べられる物も並んでいます。
また、値切ると値引きしてくれたり、おまけしてくれたりするところもあって、売主との駆け引きが楽しい朝市です。
新聞やテレビのニュースで既にご存知だと思いますが、重大な事故につながる「危険行為」を繰り返した自転車の運転者に、安全講習の受講を義務づける「改正道路交通法」が昨日(6月1日)施行されました。
この改正道路交通法では、自動車に比べ、運転ルールを学ぶ機会の乏しい自転車の運転者に対し、受講を通してマナーを向上させて自転車の死亡事故などを減らしたいとして、「自転車運転者講習に関する規定の整備」が行われたもので、従来の道路交通法違反にあたる悪質運転のうち、信号無視や酒酔い運転、交差点での一時不停止など14項目を危険行為と定めています。
そこで今日は14項目の危険行為を列記しましたので、自転車に乗る方は違反のないよう、十分注意していただきたいと思います。
なお、改正道路交通法では、刑事処分とは別に、3年以内に2回以上、危険行為で摘発された14歳以上の運転者には、各地の警察本部や運転免許センターなどでの有料の安全講習(3時間、5700円)の受講が義務づけられ、更に、受講の命令を受けて3か月以内に受講しなければ、5万円以下の罰金が科せられます。
併せてご記憶しておいていただきたいと思います。
次の危険行為を3年以内に2回以上摘発されると安全講習が義務付けられます。
「悪質」「危険」と見なされる行為14項目
1.信号無視(道路交通法第7条) 信号機の信号などに従わないこと
2.通行禁止違反(同法第8条第1項) 「歩行者用道路」など、道路標識などで自転車の通行が禁止されている道路や場所(歩行者天国など)を通行する行為
3.歩行者用道路における車両の通行義務違反(同法第9条) 自転車の通行が認められている歩行者用道路を通行する際に、歩行者に注意を払わず、徐行しない
4.通行区分違反(同法第17条第1項、第4項、第6項) 車道と歩道などが区別されている道路で自転車が通行することができない歩道を通行したり、道路(車道)の右側を
通行するなど
5.路側帯通行時の歩行者の通行妨害(同法第17条の2第2項) 自転車が通行できる路側帯で歩行者の通行を妨げるような速度と方法で通行する
6.遮断踏み切りへの立ち入り(同法第33条第2項) 遮断機が閉じていたり、閉じようとしていたり、または警報機が鳴っているときに踏切に立ち入る
7.交差点安全進行義務違反等(同法第36条) 信号のない交差点で、左からくる車両や優先道路などを通行する車両などの通行を妨害する
8.交差点優先車妨害等(同法第37条) 交差点で右折するときに、その交差点で直進や左折をしようとする車両などの進行を妨害する
9.環状交差点安全進行義務違反等(同法第37条の2) 環状交差点内を通行する車両などの進行を妨害したり、環状交差点に入るときに徐行をしないなど
10.指定場所一時不停止等(同法第43条) 一時停止の標識などを無視して交差点に進入したり、交差道路を通行する車両などの進行を妨害する
11.歩道通行時の通行方法違反(同法第63条の4第2項) 歩道の車道寄りの部分や通行指定部分を徐行しなかったり、歩行者の通行を妨害しそうなのに一時停止しない
など
12.制動装置(ブレーキ)不良自転車運転(同法第63条の9第1項) ブレーキ装置がなかったり、ブレーキの性能が不良な自転車で走行する
13.酒酔い運転(同法第65条第1項) 酒酔いとはアルコールの影響により正常な運転ができないおそれがある状態を指します
14.安全運転義務違反 ハンドルやブレーキなどを確実に操作せず、他人に危害をおよぼすような速度や方法で運転する行為。
夜に無灯火で走行するなどのほか、傘さし運転、イヤホンで音楽を聞きながら運転する、「ながらスマホ」運転で事故を起こした場合も、安全運転
義務違反になることがあります
なお、詳しくは「自転車運転者講習制度」をご参照ください。
最近、和歌山市への所用が増えてよく出かけています。
当地の有名な商店街に「ぶらくり丁」があり、1~2度その前を通ったことがあります。
「ぶらくり丁」と言えば、昭和43年(1968年)から昭和54年(1979年)にヒットした古都 清乃の歌に「和歌山ブルース」があって、その歌詞にも歌われていることから、当時、和歌山に近い大阪府南部の泉佐野市内のスナックでも、カラオケでこの曲がよく歌われていたことを覚えています。
そこで今日は、懐かしい「和歌山ブルース」を取り上げることにしました。
「ぶらくり丁の由来」
「ぶらくり」という珍しい名称について、和歌山に縁のない私にはその意味が分からなかったので由来を調べてみました。
ぶらくり丁商店街は、1830年(文政13年)に、この一帯が大火により焼失した後に、食料品や衣料品等を扱う商人が集まってきたのが商店街の始まりで、その商人たちが商品をぶらくって(吊り下げての意)軒先を飾っていたのが「ぶらくり丁」という名前の由来だそうです。
以来、和歌山城下町の一部を形成し、紀州藩を代表する繁華街、歓楽街として栄華を極めていました。
しかし、近年では駅前の商業開発が進展する一方で「ぶらくり丁」は衰退に見舞われており、それに加えてモータリゼーションの進展による人口の郊外流出、大型店(イオン)の郊外立地、教育機関(和歌山大学)の郊外移転等がその衰退の度合いを強めているのが現状です。
・ぶらくり丁商店街です。(ネットより)
「和歌山ブルース」は和歌山県での人気・知名度は特に根強く、また、この曲のヒットにより和歌山の名を全国に広めた功績が称えられ、ぶらくり丁にある雑賀橋の畔には歌碑が建てられています。
「和歌山ブルース歌碑」
平成16年、中ぶらくり丁と東ぶらくり丁の間にある雑賀橋のほとりに建てられた歌碑です。
レコード盤の形をしていて近づくと和歌山ブルースが流れ、盤面はベンチになっているため座って休憩することができます。
それでは懐かしい曲「和歌山ブルース」をお聴きください。
古都清乃が歌う「和歌山ブルース」です。