赤松小三郎は薩摩藩に英国式兵学を教え込んだ立役者といってよいのですが、佐幕派の上田藩士であったため、薩摩の軍事機密を知りすぎたという理由で、1867年9月に「人斬り半次郎」こと桐野利秋らに斬殺されてしまいました。桐野本人が赤松の弟子だったにもかかわらずです。桐野の単独犯行ではなく、薩摩が藩として赤松の暗殺を指令した可能性が濃厚です。薩摩が藩として、請うて赤松を教授にしたにも関わらず、用が済んだらサッサと粛清したのです。革命のためなら手段を選ばない、その陰湿な策謀ぶりに唖然とします。
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