前近代社会においては、百姓一揆の指導者は打ち首の覚悟であった。年貢の減免などムラの要求を通すには、打ち首の覚悟をもって臨んだのだ。しかるに近代が生み出した官・業・学が形成する共同体は、どのような失敗が発生しても誰も責任を取らない。
近世のムラ社会が利用できた資源は、ムラの内部資源であった。自らの資源を自らの手で管理していたから厳格な責任があった。しかるに近代ムラ社会が利用する資源はムラの外から流入する「国民の血税」という外部資源である。内部資源の自主管理でなく、外部資源への寄生なのだ。これは決定的違いである。資源の安定的で持続可能な利用などできるわけがなかろう。待ち受けるのは資源枯渇(=財政破たん)に至るまでの乱獲である。 . . . 本文を読む